自分の物語を閉じる

7

障害のある息子の母親として死に備える

今回から3回連続で、知的障害のある息子の母親である大山初枝さんの死について振り返ってみたい。ステージⅣのがんであった大山さんの闘病から葬儀に至るまで、支えたのは社会福祉士の東富美子さんだった。

私が、東さんと知り合ったのは、今から15、6年前のことだった。学卒後、老人保健施設の相談員をしていた。そこで遭遇した医療職との考え方の違いは、病院のソーシャルワーカーとして抱えていた私の悩みと共通性があった。また、結婚等のブランクを経て、実践教育に身を置いて支援の在り方を伝えようとしていた点も似通っていて、出会ってすぐに意気投合した。

一方で、彼女を特徴づけていたのは関西出身ということだろう。深刻な状況に陥ってもめったに落ち込まない人で、困難な状況も突き放すように笑い飛ばすことができた。「こんなことで鬱になってはいられない」。これが東さんと私の合言葉だった。

また、関西人らしく経済観念があり、生活を的確に処理することに長けていた。理想を語りつつも夢物語に走ることのない地に足をつけたしたたかさがあった。法律を後ろ盾として、財産管理と身上監護を行いながら利用者の権利を守る成年後見制度に傾倒したのは、当然の帰結と言えたかもしれない。個人として成年後見を請け負った時期もあったが限界を感じ、法人後見を行う団体に所属し中心メンバーとして活躍していた。

この法人後見の団体に所属していた縁で東さんは大山さんと任意代理契約を結んで見守り支援することになり、私も見守りの部分で大山さんに関わらせてもらっていた。

大山さんの発病の経緯

私が大山さんと初めてゆっくり話したのは、他界する1年半ほど前のころだった。正確には、それ以前にも大山さんの姿を見かけることはあった。東さんは大山さんの支援の一環として、東さんと共同で運営している音楽療法(「音楽広場」)に、時々大山さんを車で連れてきていた。大山さんは半年前、骨軟骨部腫瘍でステージⅣと告げられ、骨折を恐れた医師から自力で歩くことを止められていた。

しかし、大山さんは結局、数回参加しただけで来なくなってしまった。「音楽広場」は、主として送迎の必要のない十数人の元気な高齢者向きの活動だったため、自分だけ車いすで参加することが苦痛だったのかもしれない。あるいは、庶民的な大山さんには歌われる唱歌が肌に合わなかったのかもしれない。

その後ふたたび大山さんに会ったのは、東さんに同行して大山さんと食事をしたときだった。大山さんは東さんと月1回くらいのペースで食事を共にしていた。たまに、違った人と交流すると気分も変わるのではないかと東さんに声をかけられた。そこで私は食事をしながら闘病について詳しく話を聞かせてもらう機会を得た。

大山さんの発病の経緯は次のようなものだった。

1年前ほど前から原因不明の左股関節の痛みに悩まされ、接骨院、整形外科を経て、がんセンターを受診した。そこで気づかないうちに乳がんとなり、すでに肺や骨に転移しているという診断を受けた。また、知的障害の息子の先行きをずっと気にかけていて、がんとわかりかねてから学んでいた成年後見制度の手続きを取ろうと考えたこと、啓発活動を行っていた法人に手続きについて相談に行ったとき、病気を抱えて一人で生きていく自分もサポートしてもらえないかと相談し、東さんと任意代理契約を結んだことなど、あまり感情を交えず淡々と語った。私も同じく社会福祉士として地域で支援活動を行っているという安心感もあったのかもしれないが、大山さんにはとりつくろったり気取ったりしない江戸っ子的な気風の良さがあった。

大山さんはがんの痛みもあり、口数はそれほど多くはなかった。しかし今まで地域でさまざまな人と交流してきた人らしく、顔だけ知っている程度の私とも身構えることなく自然な会話ができた。話も分かりやすく、人前で話すことにも抵抗がないようだった。

軽度の知的障害の息子さんを成年後見人が支援し、一方、大山さんは、同じく法人に所属する東さんが任意代理契約を結んで見守り支援するという支援の形はめったになかった。このような支援について、大山さん自身に語ってもらえば、当事者家族、支援者双方にとても良い学びとなると感じた。そこで、NPOが地域で開催している講座にゲストスピーカーとして来ていただけないかを打診し、快諾してもらった。

しかしNPO主催の講座の開催には、内容的な絞り込みなや大山さんの体調の変化などあって、それから1年ほどかかった。「がんと闘いながら、ひとり自宅で暮らす」と題されたその講座には、障害当事者家族や成年後見活動を行っている支援者が多数参加した。障害を抱える当事者を、単に成年後見制度を活用して支援するだけでなく、高齢あるいは病気を抱えた家族も視野に入れ、支援者同士が連携しながら支える必要性を家族がリアルに語ったという点で新鮮な印象を残したようだった。

バックアップ体制を作る

次に会ったのはそれから半年ほどたった頃で、街中からほど近いところながら、田園風景の広がる古民家風のレストランだった。ドライブを兼ねて、大山さん、東さんと私の3人で訪れ昼食をともにした。

大山さんは前回よりかなり痩せていた。贅沢とは無縁の人で、息子のためにコツコツとお金を貯めてきたが、その時はうな重を頼んで食事のひと時を楽しみたいようだった。食事をともにすることも支援の一環であったため東さんの食事代はいつも大山さんが負担していたが、この時は私にもごちそうすると譲らなかった。しかし気の置けない人との食事を楽しみたいというだけで、そんなに食欲はわかないようだった。

来るべき病状の悪化に備えて、私は東さんが駆けつけられないときにサポートする体制を約束した。それにはもっと大山さんと懇意になり、ことばを介さなくてもある程度の意思疎通は図れるようにしておく必要があった。食事はその絶好の機会だった。

大山さんは息子の守信さんについて、「障害が重度なのも大変だけど、軽度は軽度で別の大変さがあるんだよ」と語った。「外見からはわかっていそうに見えるけれど、ほんとうのところはわかっていない」と少し匙を投げたような言い方をした。それは身内をけなす日本的な物言いというより、幾分あきらめも混じっているような口ぶりだった。大山さんと守信さんとはどのような関係なのだろうと一瞬疑問が頭をよぎったが、それぞれ別々の支援者に支えられていて私の役割はあくまで東さんの緊急時のサポートだったから、それ以上聞き出すことはしなかった。

自宅から施設への方向転換

大山さんは一貫して自宅での死を希望していた。しかしがん末期の痛みは大山さんの強い希望を翻さざるを得ないほど強烈なものだった。痛みを含めた経過については次回に詳細に記すが、東さんは大山さんにふさわしい有料老人ホームの選ぶために奔走した。そして、ここが大山さんの最期の場所となった。

私は東さんとともに有料老人ホームの選択を含めて話し合い、来るべき看取りに備えた。入所後数週間たったころ、仕事が立て込んでいた東さんから、そのホームに様子を見に行ってくれるよう頼まれた。

大山さんはパジャマ姿でベッドに横たわっていた。口数は少なかったがベッド周辺のものを引き出しにしまい、また、手近なところに時計を置くように言われた。物のありかをきちんと定め、それを把握していなければ気が済まない大山さんらしかった。生活している部屋の様子などからこの施設の長所を挙げ、私は日常的会話をするよう心掛けたが、大山さんの顔色は悪く、話をするのも苦痛な様子だった。

ことばはもうあまり役には立たなかった。冷房は効いてはいたが、本格的な夏の前でマイルドなきき方だったので、タオルを水で湿らせうっすら汗ばむ大山さんの顔を拭いた。これを機に一番望んでいることを頼めると思ったのか、大山さんはほとんど5分おきに体位を変えるように言った。介護福祉士でもない私の介護が大山さんに苦痛を与えることになってはいけないと介護職員を探したが、誰もが忙しく立ち働いていて身近なところに姿はなかった。

さりとてコールするにはあまりに頻繁過ぎた。ごくたまに自発的に部屋を訪れ声をかけ体位交換に応じる職員もいたが、5分おきの交換は常に部屋にいなければできないことだった。私は何度も体位交換に応じるうちに、同じ姿勢をとる苦痛から向きを変えたいのではなく、体中の痛みで身の置きどころがないのだとやっと気づいた。しかし、大山さんはことばとしてそれを表現することはなかった。

1時間ほど滞在し、後ろ髪をひかれるような思いで部屋を後にした。帰り際に相談員に大山さんの現状を話し、可能な限り部屋を訪ねてほしいと話した。また、東さんに連絡し、たとえ意識がはっきりしなくなっても、痛みを取ることが先決なのではないかと話しあった。

その後、訪問医が訪れ麻酔が追加され、眠っていることが増えたと聞いた。次の日、東さんがホームを訪問した。大山さんは完全に眠っているわけではなかったが、口はきかず天井を見て苦しそうなそぶりだったという。その翌日も東さんは仕事が終わってから駆けつけたが、相変わらず苦しそうで、3時間ほど滞在し一度家に帰った。そして深夜1時ころ、当直の施設長から「今亡くなった」と連絡が入った。

東さんから私に電話があったのは、その日の夕方だった。「大山さんが今朝亡くなりました」。愚痴も含めてどのような話も明るさを漂わせる東さんの口調はいつになく重かった。つい数日前、大山さんの個室を訪問した私も、そんなに差し迫った状況だったのかとことばを失った。むろん、東さんも私もある程度覚悟はしていた。大山さんが壮絶な痛みと闘わずにすむ、という安堵感もあった。しかしあまりに急激に訪れた死に、衝撃と戸惑いを覚えていた。報告する東さんの力ない声に、「できる限りのことはしたと思う」と労いのことばをかけたが、どこか空疎な響きがあった。

かねてから東さんは、任意代理契約は誰とでも結べるわけではないと私に語っていた。支援者も人間なので、大筋でその人の価値観に共感できないと難しいと。大山さんとは価値観をほぼ共有できたようだったが、年齢は親子ほど離れていた。家族でない他人がその人を深く理解するにはそれなりの時間と積み重ねが必要となる。大山さんの庶民的でありながらも毅然とした生き方に、気楽には接することのできないプレッシャーを感じると私にもらすこともあった。そして何より、死に直面すると「ほんとうにこれで良かったのか」という問いが浮かぶ。その問いに安易な慰めで応じてしまった私の後ろめたさが、空疎なことばを発したと感じた理由だった。

とうの大山さんが東さんのことをどう感じていたのか、いまとなっては確かめるすべはない。しかしはたでみていて、大山さんは東さんを深く信頼していたように思う。自分の思い描く死までのプロセスや、障害のある息子に対する気がかりを、要所要所で東さんに率直に伝え、周到な準備を重ね73年の物語を閉じたのだった。

 

 

(つづく)

登場人物はすべて仮名です。