第6回
ベッドサイドで見送った旅立ち
打ち消しようのない直感
その日は、長かった暑さが途切れて涼風が立ち始めた9月の中旬だった。寝たきりの母を1週間ほど看護小規模多機能居宅介護(以下、小規模多機能)にショートステイさせてもらっていた。夜ごとの介護からの解放もさることながら、自宅での入浴は無理だったので機械浴させてもらえるのは何よりありがたく、5日ほど利用していた。
明日は家に帰るという前日、自宅で保管していた薬を届けに歩いて5、6分の施設を訪れたのはお昼少し前だった。「今日は少し元気がない」と看護師に聞かされ部屋に入ると、明らかにいつもの母ではなかった。最近は体調がすぐれないためか青白かった顔色が、赤味というよりかすかに紫色を帯びていた。それを見た瞬間、もしかしたら死が近いのかもしれないと感じた。昨日、訪問した兄は元気そうだったと電話してきていて、看護師もちょっとした不調ととらえていたが、私には打ち消しようもない直感だった。あわてて看護師を呼んで、訪問医に連絡してくれるよう頼んだ。
あいにく医師は週1回の外来診療日で、診察を終えて訪問してくれた時は午後2時近くになっていた。心臓が弱っていることを告げ、しばらく使用していなかった在宅酸素を再び使うことを母と私の双方に提案した。使うかどうか問われると、母は無言のまま静かに首を横に振った。もう一度看護師がことばを尽くして説得したが、意思は固かった。「もう十分頑張ったと思う」と私もことばを添えた。「自分の意思を貫いて生きる」それが娘に長年示し続けた母の生き方だったから、寂しいとか少しでも長く生きしてほしいなどの感情で引き留めることはできなかった。母らしく人生を全うしてほしいという私の願いと母の意思は重なっていた。医師も看護師も強い意向の前で、説得を断念せざるを得なかった。「今日は夕方から用事があって駆けつけられませんが、代診を頼んでおきます」と言い残して医師は帰っていった。
穏やかな他界
ベッドサイドに座りながら、私は手をこまねいていた。母はといえば、目を大きく開けたままで、まどろむことは全くなかった。唇が渇ききっていたので、水を飲もうかと促しても、かぶりを振るだけだった。前回、一時危篤だった時と異なり、ほんとうに死にゆくとき水は必要ないのだと学んだ。今度は定石通り、綿を水で湿らせて唇の周りを拭いた。何もできないことの罪滅ぼしの気持ちだった。聴力は最期まで残ると聞いていたので、今の家で40年近くともに生活してきたことへの感謝の気持ちを伝えようとした。室内には私しかおらず、問わず語りに話しかけることもできたが、いざとなると口をついて出てくるのは、今までありがとうということばだけだった。手を握る、身体をさする、足に触れる、いろいろ試みたが、母はことばでないことばで静かに見守りなさいと告げていた。地域で支援活動を行い、看取りに関する本を上梓しながら、一度も人の死のプロセスに立ち会ったことのない私の負い目を母は知っていた。これが親として、娘に最期に残すことのできる体験であり、教育なのだというメッセージがそこに込められていた。
一瞬一瞬の変化を見逃すまいとしたが、静かにほんとうに静かに時が流れるだけだった。「今わの際の呼吸」として医学書に書かれているあえぐような浅い呼吸に移ることもなかった。呼吸が止まるときも、この世から徐々にフェイドアウトするような感じだったのだろう。 その瞬間がいつ来たのか傍らにいながらわからなかった。ふと、呼吸をしていないのではないかと感じて、看護師を呼んで確かめた。時計は午後6時を指していた。数か月前、何を根拠にそう思ったのか母は説明しなかったが、「あの世とこの世はすぐ近くにあって、つながっている」と話したそのままの去り方だった。
在宅介護の岐路に立って
要介護5となった後、小規模多機能では「ここは在宅介護サービスですから、ずっと入所するというわけにはいきません」と説明を受けていた。前回ここで体調不良となり自宅に連れ帰ってからすでにひと月半が経過し、これ以上働きながら介護するのは難しくなっていた。訪問看護、介護は自宅でも受けられたが毎日というわけにはいかず、後の時間はすべて一人で対応しなければならなかった。嚥下障害はなかったが、できるだけ喉越しのよい食べ物を用意した。好きな味であっても、口をつけるのはせいぜい一口か二口だった。それも、娘が作ったものをむげにはできないという気持ちだけで、食欲からではないことがはた目からもよくわかった。おむつを替えるという当たり前の介護でさえ、母の身体を容易には動かせずベッドの後方や左に身体がずれるとひとりでは修正できなかった。
幸いなことに、仕事の時は元有料老人ホームの副施設長で、在宅生活を支えたいという強い思いで介護保険外のサービスを提供する事業所を立ち上げた青年に安心して12時間以上委ねることができた。しかし、介護は昼夜を分かたず続いたから、この生活はせいぜい2か月が限度なのではないかと感じていた。破綻が来てから動くのでは遅すぎると、伝手を頼んで特養に入所できるよう手はずを整えた。
元気なころから、母は娘の人生の妨げとならないことを強く望む人だった。このまま在宅介護を長く続けることを母は望まなかっただろう。しかし母の衰えは進み、明確な意思表示はもはやできなかった。待機待ちが当然の特養で、即刻というわけにはいかないながら、同一法人内の小規模多機能を1月ほど利用していれば、空きが出るという説明を受けた。入所のめどが立って安堵したが、もはや地域内とは言えない家から1時間ほどの特養への入所に、多少のためらいや後ろめたさはぬぐえなかった。
入所日は10月1日だったので、2週間後に迫っていた。しかしそのプロセスをたどることなく、母は地域で93年の人生の幕を下ろした。その一部始終を小規模多機能の個室のベッドの傍らで、私は見送ることになった。
まだ暖かい母の身体を看護師と二人で清め、旅立ちの服として用意したピンクのブラウスと黒のロングスカートに着替えさせた。70代にしばらく所属していたコーラスサークルの発表会の衣装で、最近ではデイサービスのクリスマス会で職員の伴奏に合わせて歌った時着用していた。代診の医師が到着したのは7時半過ぎだった。簡単な確認の後、その時刻と老衰という理由が死亡診断書に記された。
父が老健施設から救急病院に搬送され4日後に死を迎えた時、自宅には母が生活していてケアが必要だったから、父の病室がたとえ個室でも泊まり込むことはできなかったが、そもそも8人部屋で終始付き添うのは無理だった。せめて母だけは自宅で看取りたいと思い、その決意を父の死後すぐに母に伝えていた。そしてその時に備えて、訪問看護師と24時間契約を結んでいた。しかし、家で娘がたったひとりで看取るのは心身ともに負担が大きいと母は考えたのだろう。その証拠に、体調を崩すのはいつも自宅ではなかった。それは介護の良し悪しでは無論なく、娘の負担を少なくしようとした母の深いところの意思だったように思えてならない。
母が残した大きな問い
母に対して、やれるだけのことはやったと悔いは残らなかった。ただ、悔いはなくても、答えの出ない思いは残った。アメリカでは、高齢者の多くは子どもに老後の面倒を見てもらおうとは考えていない、子どもに負担をかけたくないというより、最後まで自由と自立を大切にしたいという気持ちからだとアメリカでの生活が長いジャーナリストが書いていた。父も母も個別性を大事にする欧米的価値観の人たちだった。独立した子どもとは距離を取ろうとし、孫が生まれてからも子守はしないとくぎを刺された。当時は育休もなく、私は仕事は諦め子育てに専念した。その宣言はいかにも両親らしいと感じ、祖父母を当てにしないで子育てするのは当然と受け止めた。
一方で、両親ともに「老後の面倒は家族が看る」という意識から解き放たれているわけでもなかった。それは、90歳を過ぎて父も母も異口同音に口にしたように、自分の予想に反して「あまりに長く生きすぎた」からなのかもしれない。そして介護が最初は身の回りのケア、たとえば買い物やちょっとした用事の代行から始まり、長年かけて介護に至るという性質のものであったからかもしれない。また日本では、家族介護を念頭に置いた介護保険制度で、「一人で生きること」を前提とした仕組みが完成しているわけでもなかった。
最晩年の母は、果たして「自分で決定し自分の意思を貫く」という生き方を、どこまで達成できたのだろう。私はできるだけ手を出さずに見守ろうとした。最期の1月半は寝たきりとなってさすがに私がすべて行ったが、看護師は「それまで手出ししなかった娘さんがやっと本気になった」と歓迎した。しかし、見守りは簡単なようでいて決して片手間ではできない。刻々変化する状況や本人の意向を的確につかみ、必要なサービスにつなげる必要があるからだ。看護師にとってはサービスに委ねることは家族愛に欠けると映ったらしかった。そうやってできるだけ手を出さずにいても、自由に生きたい当の母が娘の見守りを管理されていると受け取ることも少なくなかった。それは見守る側が家族であるゆえの不自由さなのか?
私たち母娘は、長年、母が自分の意思で決定し、娘がそれを代行する関係だった。それを逆転させるには、認知症も含めて意思決定が十分にはできないこと、身体の不自由さゆえに他者に行ってもらわなければならないことを母が認める必要があった。全く認めていないわけではなかったが、母にはどこか釈然としないところがあった。自分の人生を他者に委ねることは母には耐えがたいことだった。それならば、介護保険サービスを含め介護は最期まで他人に委ね、親子は昔の関係を維持した方が尊厳は保たれるのか? 母の看取りは大きな問いを私に残していった。
(つづく)