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母とのQOL論争

理想を追求する母の傍らで

母は昔からベストを追い求める人だった。趣味のパン作りにその特徴がいかんなく発揮されていた。当初、近くのパン教室で作り方を学んだがやがて師範の資格を取り、請われれば人に教えてもいた。パン専用のこね機や醗酵機をそろえ温度や湿度によって水分量を調整するなど、こだわりはパン職人に近かった。朝4時から仕込みにかかり、香ばしい匂いとともに、家族は7時半に焼き立てパンを食べることができた。

ケアとの関係でいえば、母のこの厳密さは悩みの種だった。もともと食欲旺盛な人ではないため、食べてもらうためにはかなりの配慮が必要だった。珍しいものを多種類少量ずつ食べたがった。それに加えて味覚や嗅覚が異常に鋭く、数々の制約があった。たとえば、好物のカボチャもほくほくしていないと食べなかった。何度も失敗を繰り返すうちに、確率の高い店で外見から判断して2種類買い、外れは我が家で食するよう保険をかけていた。甘みを引き立たせるために塩を入れた和菓子は邪道と受けつけず、肉は豚肉を好んだが動物特有の臭いのあるものを嫌った。

このように、食事は単に生理的欲求を満たし体調を維持するためのものではなく、毎食珍しさと創意工夫が要った。ケアの大変さは介護度の重さと必ずしも一致するものではなく、その人がどの程度きめ細かな配慮が必要かにかかっているように感じた。

母は常々「沢村貞子の死」へのあこがれを口にしていた。沢村貞子は87歳の時発熱したが治療を受けず、最期の2週間は食事もとらず1月半ほどで大往生を遂げていた。共感の背景には、修練のためにお寺に泊まり込んで断食するという女学校時代の特殊な教育も影響を与えていた。母はまず頭で理解するタイプの人だったので、断食による自死を試みた作家の『死にたい老人』を手渡し、何の兆候もない時期の食事制限は頭痛や吐き気などの苦痛を伴うらしいことを話し合った。

しかし、量は食べられないと母から食事を減らすよう言われると、盛り付けている量は一目瞭然のことで逆らえなかった。少量多品種に変え、極力珍しいものを食膳に挙げたのは、それが生命力を図るバロメーターになったからだ。食指が動けば、まだ生命力は衰えていないと判断できた。

「娘の手助け」と「ソーシャルワーカーの支援」の狭間で

理想の追求は、食だけではなかった。母はより良く生きたという実感が得られるように、その日の楽しみや目標を常に掲げていた。しかし、細部を詰めて計画を実行するのは自力では難しく、必然的に私の役割となった。時々、私は叫びたくなった。「買い物、食事を含め生活の雑事全般を担っているのだから、この上私に要求しないで」と。

振り返ってみれば、母にはまだそれだけの気力、体力があったのだろう。近隣の高齢者は、買い物に行き食事を作り後片づけするだけで精いっぱいの暮らしで、それに甘んじているように見えた。

若い時から、母も母の母も、お手伝いさんに家事を委ねることに抵抗を感じなかったので、老いればなおのこと、自力で家事をする意識はなかったのかもしれない。その現れなのか、70代の後半に、有料老人ホームに入りたいと言い出したことがあった。2000年ごろの有料老人ホームは健康な高齢者のためのホテルのようなものが主流だった。私も見学に付き添ったが、シャンデリアの下の豪華な食事はたまにならともかく、始終では飽きてしまうだろう。「介護にも対応するので終生ここで暮らせます」といううたい文句の割には、設備も体制もお粗末で、介護に備えているとは思えなかった。

また、居住者との関係にも懸念があった。母は他人に対しても要求水準が高く、気が合わなくなると不仲になることも多かった。当時は家屋敷を処分して入居しなければならないほど高額な料金だったから、人間関係で退去するリスクを抱えることは危険で、父、兄、私、家族全員が否決してしまった。その時ふと思った。暮らしを他者に委ねたいという母の意思を尊重できなかったのだから、今後自宅での生活に起きることは、自分にも多少責任があるのだと。

両親とも近所の人からは「霞を食べて生きている夫婦」と称されていた。生活の雑事に関わらないでも済むことは、恵まれた境遇と言えた。私はそれを幼い時から見続けてきた。傍からはどうでもいいようなことへの母のこだわりの強さは私にとっては「その人らしさ」だった。私がソーシャルワーカーでなかったら切り捨てたかもしれないが、母を通して「その人らしさ」を尊重し、どう支援するかを模索していた。

むろん、常にソーシャルワーカーになり切れていたわけでもなかった。できるだけ充実感を感じてもらえるよう心がけたが、ある日突然、「甥姪を一人ずつ呼んで別れの挨拶をしたい」などと言い出したときにはさすがに面倒に思った。母は5人兄弟の3女なので、甥姪は10人ほどいた。仕事と日常のケアで手いっぱいな私はそのたびに同席し、お茶出しする気力がなかった。ショートステイ滞在中に呼んだらと提案しても、この家に呼ぶからこそ意味があるのだと母は断固として譲らなかった。この件は、気が進まないまま私が具体的な行動を起こさなかったので、とうとう実現しなかった。


写真/ぱくたそ

家族の役割とは何か?

訴えの多い父が訪問診療の中で中心となっているうちに、母の糖尿病は徐々に進行した。父亡き後は血糖値もかなり高くなり、2種類の薬剤を飲んでコントロールすることとなった。緑内障もあり、定期的に眼科に通院し常に目薬をさしていた。しかし、ある時から片目が見えなくなり、光さえも感じることができなくなった。

読み、書きが大好きな母にとって失明は大きな脅威だった。「もし、もう片方の目も見えなくなったら、私は生きていません」と言い放った。生きていませんというが、一体どうするつもりなのか? 自死を選ぶのも気力、体力のいることだが……。ソーシャルワーカーとして支援に携わる中で、目が見えないことを受け入れ、人生を投げ出さず必死に生き抜いている人たちを何人も知っていた。「それでも生きていかなくてはね」と応じたものの、失明すると常に人の力を借りなければならず、それが耐えがたいのだと察しはついた。幸い失明は免れた。眼鏡の上からハズキルーペをかけ、さらに拡大鏡を使って、死の2月ほど前まで読書を諦めることはなかった。

時間の限られている介護保険の中では、洗濯機を回しておく役割も家族が担わざるを得ない。買い物も調理も母の気難しさゆえに、ヘルパーさんにはお願いできなかった。家族が複数いれば役割も分担できただろうが、唯一の兄弟である兄のところは家族が病気がちでそれも難しかった。家族の役割を考えるとき、洗濯、食事、買い物等日常生活上の支援とその人固有のニーズ、たとえば母の場合、好みそうな本を買ってくる、訪問音楽療法を受けられるよう手配する、手紙好きな母用の季節の絵柄のはがき箋をそろえ、お花見弁当を準備しお花見するなどなど、それらを一人の人間が担っていると早晩破綻してしまう。異質の役割は、別々の人が担ったほうがいいのではないかとつくづく思い知らされた。ともかくも、この時期の私は、「家族の役割とは何か」という自問を続けていた。

そんな日々のなか、驚かされたのは、母の洞察力だった。訪問看護師が助言をして帰った後、即座に「あの看護師は自分の都合でものを言った」と告げた。それは傍らで見ていた私にも実感できた。同じ話を繰り返し、忘れるゆえの誤解や判断力の低下は増えていたが、直感的理解力はむしろ研ぎ澄まされていくように見えた。翻って、私自身は自分の都合を二の次にできたのだろうか?

仕事の日は決まった時間に家を出る必要があったから、時間は限られていた。母にこうしてほしいと伝えるとき、私はまず自分に問うた。自分が今伝えていることは、自分の都合が最優先になっていないか、母のケアが滞りなく進むためにほんとうに必要なことなのかと。当然のことながら、100%自分の都合がないということはなかった。しかし、少なくとも母と向き合うときは自分の都合を抑え、頭のてっぺんから足の爪先まで、母に良いと思われるケアを提供していると信じるようにした。そこに邪心がなければ、母はその通りにしてくれたが、少しでも私の楽さや能率を重んじると、抵抗にあい、よけいに時間がかかった。

母は「アルツハイマー型認知症」と診断されていた。しかし、認知症という病は私たちが考えるのとは別の側面があるのかもしれない。この時期は、人間としての真価の問われる修行の日々だった。

(つづく)