第4回
母の役割意識
母の葛藤、娘の迷い
父が病院で亡くなった後、ともかく一度父を家に連れて帰った。あんなに家で死にたがった人だから、せめて死後でも家に帰れなければ魂が浮かばれまいと思ったからだった。
教会での告別式に先立ち、家族だけで密葬した。告別式の日程は、牧師の都合もあって、3週間先だった。葬儀を済ませてからの連絡なので、親戚、知人に一斉に知らせようと段取りをしていたが、母は気の赴くままに電話をかけた。その結果、あちこちからの問い合わせに追いまくられることになった。
ある日、母はいつも通り午後7時半に就寝したものの午前1時半に起き出し、送られてきたお悔やみの手紙に返事を書いた。必然的にいつもと違う生活スタイルとなり、数日は生活全体がぐちゃぐちゃになった。
突然の弔問客への対応や死去後の事務手続きにも追われていた私は、母の行動を苦々しく思った。認知症が悪化したのかもしれないと咎めはしなかったが、どのような気持ちなのか詳しく聴くゆとりはなかった。聞き役になってくれたのは母のお気に入りのヘルパーさんだった。そのヘルパーさんから、後日、母が配偶者を失くし、今後は自分が中心にならなければという役割意識で不安を膨らませ、混乱した状態になったと聞いた。いわば「喪失のプロセス」だったわけだが、『地域・施設で死を看取るとき』にそれを記しながら、あまりにも身近すぎて配慮を欠いていた。
その時期を過ぎると、母は「もうお父さんを看取ったのだから私の役割は済み、いつ死んでもいい」と言い始めた。同性として、男性に仕えることで一生を終えるのは残念に思い、「これからがあなたの人生でしょう」と引き留めた。
母だけになると、母中心の生活にすることはそれほど難しくなく、その甲斐あってか「今が一番幸せ」と言ってくれた。しかし、ひとりできなくなることが増える中で、どうしたら私にもたれかからずに母らしく老いていかれるのか、内心私は考え込んでいた。
母もまた、生活の主体者としての意識を持ったまま、娘との生活の中で葛藤していた。「老いては子に従い」ということばを自分に言い聞かせるかのようにたびたび口にした。もちろん無理矢理従わせようとしたことはなかったが、ある程度の道筋はつけざるを得ず、ケアチームの中でその役割を期待されてもいた。「母娘」という不変の関係のままの私ではなく、決定に携わるのが他人だったら、母はずっと葛藤が少なかったかもしれない。そんな生活は、それから6年ほど続いた。
死の予行練習
他界するひと月半ほど前の8月上旬、後から思うと「死の予行演習」というべき場面があった。あと10日ほどで93歳になろうという時だった。
母は小規模多機能看護・介護(以下小規模多機能と省略)で週2回デイサービスを利用していた。いつもなら送迎車で家に帰るころに、「脱水症状を起こしています。訪問医に連絡して点滴します」と電話があった。看護師が看てくれているのだから点滴すれば回復するのだろうと、唐突な感じはしたがそれほど不安には思わなかった。
しかし、次にかかってきた電話は急を告げていた。
「心不全を起こしています。先生は夏季休暇中でしたが、今、新横浜に着き、これから駆けつけるとのことです。娘さんもすぐ来てください」という。ほどなく、訪問医からも電話があり「症状の出方があまりに急激なので、救急車で提携している病院に運んではどうか」と打診された。
それは約束が違うと私は思う。この間、母を交えて繰り返し医師と話し合ってきた。できるだけ自然な形で見送りたいこと、延命措置は必要ないこと、救急搬送するのは痛みが強いなど苦しい時だけにすることを確認していたはずだった。医師は、重大な病気を見逃し、責任を問われることにならないかと一抹の不安に襲われたのかもしれない。しかし、その判断は家族や看護師など、一番身近で看てきた人に委ねていいのではないかと感じていた。
今、特に痛みや苦しみを訴えていないので入院させる気はないこと、ともかく急いで母を診てほしいことを少し語気を強めて訴えたので、医師が折れた形になった。施設につくと、母は浅い息をしながら横たわっていた。要介護2で、今朝は介護職員の介添えはあったが自分で送迎車に乗り込んだことを思うと、確かに急激な変化だった。
しかし、私はここ半年ほど、母の看取りの時期は近づいていると密かに思い始めていた。
ひとつの目安は体重の減少だった。今までと大きく変わらない食事量なのに、体重は減り続けていた。血液検査の数値でも、たんぱく質の割合を示す血中のアルブミンが減少していた。これらのアンテナは、母だけは自宅で看取ろうと決意して、老化から老衰に至る道のりについてデータも含め情報収集を続けた結果だった。
体重が減少すると筋肉も衰え、何かにつかまらずに歩くことが困難になっていた。元来痛みに弱く痛みと戦うだけで消耗して寝込んでしまう人なので、転倒骨折を避けようと母の導線に沿って、家のあちこちに突っ張り棒式の手すりをつけた。
もっと重要なことは、生きる意欲の低下が感じ取れることだった。「生命力」とはまさにそれを指しているのだろう。それらのことを、訪問診療時に医師に、小規模多機能の看護師や介護職員には、月1回の家族懇談会で伝えていた。
しかし、医学的根拠を大切にする医療者は、家族からの訴えをそれほど重視しなかった。医師や看護師とはあくまで娘の立場で接していたので、ソーシャルワーカーとしてのそれなり確度の高い生活上の観察結果だと伝えることはできなかった。
診察の後、心不全であることを確認した医師はすぐさま在宅酸素を手配し、マスクをつけて呼吸を確保することとなった。後から思うと高齢者のこの場面での在宅酸素も延命措置の一種だった。
この世に引きとめる「心残り」
その晩から、介護ベッドの下にマットレスを敷いて泊まり込んだ。必要なものを家に取りに帰ると、すぐに呼び戻された。酸素濃度や血圧等の数値が測定不能で、医療的には「危篤」ということのようだった。
しかし、私はそうとうは思えなかった。ひとつには母が「水を飲みたい」と訴えたからだ。看護師にその旨伝えると、誤嚥を恐れ綿に水を含ませ割りばしで唇を湿らせるよう言われた。それはまさに死に水だった。しかし、母が望んでいるのは、唇ではなく喉を潤すことであり、もともと生理的欲求の弱い母が必死に生きようとするサインであるように見えた。看護師と押し問答していると、介護職員が吸い飲みを持ってきて、慎重に少量ずつ飲ませてくれた。
生理的欲求は示しても、クリスチャンらしく指を組み祈りのポーズをとって、天に召される覚悟を固めているようにも見えた。半信半疑でともかく兄に泊まってもらい、孫たちを順次呼んでいつ別れてもいいように準備した。しかし4日後、酸素濃度は97%ととなり、少しずつ食べ物も口にできるようになって峠は越えた。
死についてあれこれ思いめぐらせてきた私は、人は何か心残りのことがあると死ねないのではないかと考えていた。父の場合、医師が今晩かもしれませんと告げた日には何ごとも起きなかった。当時、仕事であちこち駆け回っていた兄とは連絡が取りにくかった。兄は半年前に老健に見舞いに行っていた。以来父とは会っておらず、それが最期になるかもしれないと覚悟していたようだった。
今は危篤で意思疎通もできないので兄への連絡は死後でもいいかと考えた。しかし、その日何ごとも起こらなかったのは、意識はなくてもまさにそれが父の心残りなのだと気がついた。次の日、電話しすぐ病院に行ってくれるよう伝えたが、兄の動きは鈍く、ようやく病院に着いたのは午後9時だった。兄は耳元で最期のことばをかけた。その3時間後に、父は思い残したことはなくなったかのように、この世を去ったのだった。
母にとっての心残りとは何なのだろう? それは、看取りを極めたいと願ってきた私が、寝たきりの人の介護を全く経験していないことなのではないか。小規模多機能には結局16日間宿泊した。定員6人の宿泊設備で25人の登録者に対応し、他の人もそれぞれ事情を抱えていたので、それ以上泊まることはできなかった。それからひと月半、母は要介護5の状態で自宅で過ごし、私は最も介護らしい時間を存分に体験したのだった。
(つづく)