自分の物語を閉じる

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わがまま言ったけれど、聞いてくれてありがとう

夏の暑さの緊急避難的な入院はひと月の約束だった。

21日ほどたった頃、主治医に退院後の行き先を尋ねられた。肩の荷を下ろし安堵している母の状況を考えると、家に帰宅するという選択はもうなかった。

ただちに家族、ケアマネジャー、看護師、同じ法人の医療ソーシャルワーカーが招集され、医師とともに地域連携会議が開かれた。入院している間に歩く力がかなり弱まったことから、リハビリ目的での老人保健施設入所が提案された。入院は夏の一時期でその後は元通り家に帰れると信じ込んでいた父は難色を示したが、医療者に押し切られることになった。せめて一度家に戻ってから入所したいと主張したが、「介護タクシーを手配する都合もあるから」と私は病院から直行すると告げた。里心がつくと、父は入所を断るだろう。帰宅すれば梃子でも動かなくなることは目に見えるようだった。

家族のケアを介護と感じていなかった父は、自分が介護施設に入居する状態であることを認めなかった。まず、個室に職員が入室することを拒んだ。「自分はお金を払っているのだから、お客だ。その部屋にこちらが呼んでもいないのに入ってくるな」というのが父の言い分だった。

私は週に一度訪問し、おやつの差し入れ、テレビカードの購入など細々した用事を果たした。しかし、顔を合わせれば「家に帰りたい。ここにいるのははめられたからだ。首謀者はおまえ」と繰り返しなじられ、訪問は苦行だった。

母も孫を伴い、月一度くらいのペースでタクシーで訪れていた。しかしある時、顔を見るなり「なんだ、万里ではないのか」と言われたと気持ちが遠のいたようだった。父にとっては家族との情緒的な交流より、自分ができない用事をかわりにやってくれるどうか、すなわち役に立つか立たないかが数段大事なことだった。

95歳の誕生日を自宅で祝おうと1月初旬、一時帰宅した。

両親宅はガスの消し忘れの懸念から電磁調理器が1台しかなかった。私は用事があったらすぐ呼ぶように念を押して、自宅で夕食を作っていた。しばらくして様子を見に行くと、ダイニングテーブルからソファーへの数歩の移動を母に手伝わせ、二人とも転倒していた。父は骨の丈夫な人で、何度転んでも骨を折ることはなかった。母は腰椎圧迫骨折の前歴もあり、かなりの痛みを訴えたため翌日受診すると、肋骨にひびが入っていた。

加えて、戸建て住宅の夜間の寒さも父には応えたようだった。むろんオイルヒーターを一晩中つけっぱなしにして保温したが、鉄筋の施設の暖かさとは比べようもなかった。家族も住宅環境も今の自分には適合しないと悟ったのか、この外泊を堺として、家に帰りたいということばを全く口にしなくなった。

リハビリは続けていたが、筋力の落ちるスピードは早かった。やがて狭い室内の数歩の移動でも頻繁に転ぶようになった。転倒してけがすることを防ごうと看護師、ケアマネジャーと父を交えて頻繁に話し合った。父は「そんなに転ぶことを恐れるのは君らの保身だろう」と言い放った。さすがにケアマネジャーもこれを聞き捨てにできず「そんなことを言うなら、もうさよならだよ」と応じた。

集団生活にはあまりに不向きな人だった。契約時に説明された重要事項説明書には「集団生活を乱した場合には退去」という一項があった。数か所見学した中で、94歳で嚥下困難な父を受け入れてくれたのはこの老健だけだったから、今、退去となれば家に帰るしかなかった。「人が善意で心配してくれていることをそんなふうに言わないで」と父をたしなめながら、どうにも扱いにくいこの老人の介護は、家族と介護職がチームとなってあたるしかないと覚悟を決めた。転倒しても誰も責める気はないこと、後ろに転んで後頭部を打って死に至ることだけは避けてほしいことをケアマネジャーに伝えた。

看護師、介護職員は徹底的に父の話を聞いてくれた。職員は憎まれ口としか思えない父のことばの中に愛すべき点があるのを発見し、距離を縮めていった。施設で生活しなければならない苛立ち、姿を見せない息子に対する心配、死への強い不安を共有してくれた。父は家族には決して見せなかったありのままの自分を一部のスタッフに見せることができた。

いよいよ救急車で病院に運ばれるとき、環境の変化に不安を見せながら、「またここに帰ってきます」と言って乗り込んだという。父にとって施設はすでに「第二の家」同然になっていた。ケアマネジャーは翌日病院に見舞いに行ってくれた。「忙しいのにありがとう。まさか来てくれるとは!」と満面の笑みで迎え、「スタッフに大変お世話になった。いろいろわがままを言ったけれども、よく聞いてもらったと感謝している」と話したという。

娘に対して最期まで「厳父」を演じ怒鳴るだけだったことと比べるとまったく別人のようだった。しかし私はそれを聞いて安堵した。父は周囲に感謝のことばを残していたのだ。それが礼儀だからではなく、感謝はとりもなおさず自分の人生に対する肯定だから。

「惨めな一生」と一度総括された父の物語は、施設に入り他者に出会うことによって「支えられ生かされた自分」に書き換えられた。それは、死の直前まで人間には成長の機会があることを示していた。そしてそのプロセスを後に聞いた私にも、遅ればせながら父の死に対する肯定をもたらしたのだった。

 

 

(つづく)

次回は、母の看取りの記録です。