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惨めな一生だった

父の両親はそろって佐賀の出身だった。父自身は東京で生まれ育ち、幼少の一時期、父親の仕事の関係でアメリカで生活したこともあった。鉱山技師として1年の半分は海外で探査の仕事に明け暮れていた。しかし外国暮らしで身につけた自由闊達さの一方で「武士は食わねど高楊枝」のような日本的美学があり、「葉隠れ」を愛し「女」「子ども」を対等の存在とみなさいところがあった。

母の方は、かつてはお手伝いさんを雇っていたようなお嬢さん育ちの人で、長寿ゆえにいつまで経っても夫の世話から解放されないことに苦痛を感じていた。両親のこのような状況を二世帯住宅の隣で手に取るように感じてきた私は、見て見ぬ振りはできなかった。そして何より実践者として「紺屋の白袴」は避けたかった。

ただ、息子たちは完全には自立できていないため、世帯主として仕事を辞めて介護に専念するわけにもいかなかった。稼ぎの中心である教員という仕事は、ありがたいことに、減収を覚悟すれば働き方を変えることができる。常勤教員、契約教員、科目担当非常勤講師という形に。ただ、就労形態の変更は年度当初に行う必要があり、それぞれの老化のスピードに合わせて的確に対応できるわけではなかった。

父は92歳の夏、原因不明の発熱で入院を余儀なくされた。発熱と長い入院生活で筋力が衰え、座位を取ることさえ難しくなり覚悟を決めたのか、家族に「葬式の準備をしておけ」と厳命した。しかし1か月半後、膠原病の疑いという診断を得て退院となると、両方の手に杖をついて家の中を移動しながら父流のリハビリを果たし、数か月後には入院前の状態に戻っていた。「家でみんなと暮らしたい」この一念が復活を支えていた。因みに確定診断については、診断がついたところで治療法がないなら、新たに検査入院をする必要はないと父、娘の意見は一致し、結局受けずじまいだった。

むろん、両親ともに訪問介護、看護、デイケア等介護保険サービスを使っていた。しかし父は身体介護を嫌い、不要不急の買い物を書き出してヘルパーさんを外に出してしまうのが常だった。デイケアも午前中の機能回復訓練には意義を見出せても、午後からのプログラム活動は煩わしく、勝手にタクシーを呼んで帰宅してしまった。

数回そんなことが続くと、事業所から咎められ、以来ほとんど通わなくなった。ショートステイも部屋の環境等一度で懲りて、全く利用しなくなった。デイやショートステイの間の息抜きの時間やヘルパーさんに介護を委ねる道を断たれた母は希望を失い、私が自室にひとりでいるタイミングを見計らって、「お父さんが入れる施設はないの?」と頻繁に訴えに来た。母のそのような動きはおそらく父も察していたのだろう。「もう少しここでみんなと暮らしたい」ということばもかつての迫力を失っていた。

私が同席する都合で、ケアマネジャーの定期訪問は日曜日が多かった。その際、引導を渡されるのではないかと心拍数が異常に上がり、訪問看護師の携帯に自ら電話して、心臓がドキドキすると訴えていた。看護師と私は診察の必要性を話し合い、タクシーで受診することも検討した。

しかし、心拍数の上昇は心因だろうという点で意見が一致し、様子を見た。案の定、ケアマネジャーが帰ると、たちどころにいつもの状態に戻っていた。当時、父の担当であった男性のケアマネジャーは、父の頑固さをよくわかっていて直接父に何か言うことはなかった。しかし、私には住宅型有料老人ホームのパンフレットを渡し、見学を勧めていた。

父がこれ以上自宅で生活することは難しいのではないかと感じた「あるできごと」があった。父は元々あまり水を飲まない人だった。几帳面な性格で薬をきちんと自己管理していた。ただ、年を追うごとにひどくなっていたせっかちさが災いした。便秘薬が効かないと30分の間隔で立て続けに服薬し、激しい下痢に見舞われたらしかった。

後で私にその顛末と「しばらくろれつが回らなくなった」と告げた。素人の私にも、一時的に水分が不足し軽い脳梗塞を起こしたらしいことが理解できた。父に薬を管理させるのは限界だった。さりとて娘に任せる人ではなかった。父にふさわしい場は、有料老人ホームという介護が提供される場ではなく、信頼を置いている医療スタッフが直言できる場だと感じた。

また、発熱するのは決まって夏の時期だった。着古したゆえに身体に馴染んだフリースを夏でも脱がない人だったから、今から思うと膠原病というより単に「うつ熱」だったのだろう。

薬の管理、母の状況、夏の発熱、いろいろ考え合わせると、訪問診療のクリニックに一時的に入院させてもらい、医療の管理下に置いてもらうしかないと考え、医師に説得してもらった。

この家で死ぬまで家族とともに暮らすという夢が破れた時、口にしたのは「惨めな一生だった」ということばだった。父は娘との間で意見の対立があると「お前は俺の言うことだけ聞いていればいい」と怒鳴った。

おそらく父にとっては、妻も娘も自分ができないことを補助したり肩代わりする空気のような存在だったのではないか。ふたりでそれを遂行してくれれば、慣れ親しんだ我が家から別のところに移るということはありえないことだった。妻や娘の事情は一切斟酌されなかった。我が家での生活を全うできなかったのは、ひとえに家族が「反旗」を翻したためで、それが父の惨めさの正体だったのだろう。

 

(つづく)