自分の物語を閉じる

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別れは不意にやってきた

わたしはかつて、福祉事務所や病院にソーシャルワーカーとして身を置いていた。その中で、死との遭遇は決して少なくなかった。死によって、組み立てた支援が突然終了し、限界をいやというほど思い知らされた。しかし、限界という支援者の視点以上に、その人が生きてきた「物語の最終章」として、どのように死を迎え周囲がどうかかわるかがより重要なことではないかという思いが残った。

その後、支援の在り方を伝える教員業のかたわら、地域のさまざまな生活課題に対処するNPOを起こして実践に携わってきた。と同時に、両親の介護を実地で体験する生活が10年ほど続いた。

父と8歳年下の母はそろって長命で、95歳、93歳まで生きぬいた。二人ともに寝たきりとなる期間は短かった。しかし、さすがに最後の3年は気力体力ともに徐々に下降線をたどり、私は看取りを意識していた。父母の看取りまでのプロセスは、夫婦であっても当然ながら全く別のものだった。このプロセスに伴走するうちに、看取られる側、看取る側にできるだけ悔いを残さないことが、その人の「物語」にふさわしい結末につながるという確信を得た。

以来、この人はどんな形で自分の物語を閉じたのだろうかと、看取りに強い関心を寄せることになった。そこでまず、父、母それぞれの看取りのプロセスを改めて振り返ってみたい。さらには、看取った方からの聞き取りを通して、十人十色の物語を紡いでみることにしたい。

 

仕事を終えて駅頭に降り立ったのは、夜7時ころだった。待っていたかのように携帯の着信音が鳴った。父が入所している老人保健施設のケアマネジャーからだった。「誤嚥で顔色が土気色になり呼吸が苦しそうなので、救急車を呼びました。8か所の病院に断られましたが、やっと受け入れてくれる病院が見つかったので、今から出発します」という。「施設の看護師が乗っていくので、娘さんは後から病院に来てください」とのこと。ついに来るべき時が来たと思う。毎日曜、施設を訪れ身の回りの世話をしていたが衰えは感じられ、個室のドアを閉めるたびに、これが最期になるのではないかという漠然とした不安が頭をよぎっていた。

急いで帰宅し、軽い認知症の母にこのことを告げるべきか迷う。7時半には早々と寝る人なので、ここで話すと興奮して寝なくなる恐れがあった。家は2世帯。私はシングルマザーで息子が二人いるが、彼らはそれぞれ自分のことに手いっぱいで祖母のことを頼める状況ではなかった。母が寝たのを見計らい、おもむろに家を出た。電車で2駅、さらに乗り換えて4駅、隣の区のはずれの病院に到着したころには9時を回り、院内は暗く、静寂に包まれていた。

父は病院のストレッチャーに横たわり、口に酸素マスクをして苦しそうに息をしながら「枕が高い」「ベッドが固い」とかすれた声で叫んでいる。駆け寄って手を握り「大変だったね」と今生の別れの声をかけるつもりの私は苦笑した。

こんな場面は以前にもあった。数年前、唾液腺腫瘍の手術を終えて手術室から出てきたとき、頬に触れようとした私の手を強く払いのけ「自分は老人ではない」と叫んでいた。その時、すでに父は92歳だったのだが……。

救急搬送されても、自然な心の交流は望めないのかと暗澹とした気持ちになった。

ほどなく医師に呼ばれ、レントゲンフィルムを示しながら、誤嚥は急激なものではなく、ここひと月ほどの間に徐々に積み重なり限界に達したと説明を受ける。そういえば、パンなど飲み込みにくいものはすべて水分に浸して食べていた父が、おやつに出たロールカステラだけそのまま食べていたのを思い出す。甘いものが大好きな父は、柔らかさと引き換えに味が薄くなるのが嫌だったのだろう。私も特に止めなかった。いつとは明確にわからなかったが、死が忍び寄ってきている予感はあった。ならばなおのこと、食べたいものを食べたいだろう、死の直前まで節制し続けなければならないとは思えなかった。

酸素マスクをしている状態では、飲食はもうできなかった。母と孫が見舞いに行った次の日もほぼ半日、父は命令を発し続けていた。「杖」「ポータブルトイレ」「熱」……。苦しい息の下なので聞き取りにくい単語だったが、それらを持ってこいという気迫がことばの端々に込められていた。杖もポータブルトイレも起きることのできない今は、必要なかった(ちなみに「熱」は何度あるのか看護師に聞けということのようだった)。身は横たわり酸素マスクをしようとも、あくまで生活の主体者は自分という気概が感じられた。

それがしかし周囲を不安にした。こんなにどなっていては体力を消耗してしまう。母も娘も孫も、あたかも自分たちの存在が父の命令調を誘発する気がして、病院から足が遠のいた。

半日だけ父が一人になったとき、安心したかのように容体が急変し意識不明となり、2日後95歳の生涯を閉じた。

(つづく)