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支援者を通して見た物語

支援者となるまで

ここからは事業所「実りの里」で、20年近く里見さんを支援した桜庭さんという男性支援者から見た里見さんの物語を再現する。元々、桜庭さんは理科系の学部の出身で、特に福祉の知識や関心があったわけではない。いくつかアルバイトする中で、利益を最優先する企業の姿勢や職員間の熾烈な競争に疑問を持った。母親が特養で介護の仕事をしていたこともどこかで影響を与えていたのかもしれない。

就職活動の際、福祉の人材を募集する相談会に行き、福祉団体に就職した。団体は規模も大きく、支援に関わることも多少あったが、事務仕事が圧倒的に多かった。仕事の中で10人を上限とする「地域作業所」がきめ細かな支援をしつつ、障がいのある人の生活を支えていることを目の当たりにした。支援している人たちは一様に熱心で全力投球していた。地域での生活を重視するのは今では当然のことになっているが、四半世紀前すでに障がい者の幸福の追求の場を「施設」ではなく「地域」に求めていた開拓者と出会った。沢村幸子というその開拓者に強く引きつけられた桜庭さんは、誘われるままに彼女が立ち上げた作業所の支援者となった。

沢村さんには不可能ということばはなかった。自分の思いを実現するために、あらゆる手立てを駆使して形にした。それは道なき道を切り開く先導者として、ブルドーザーのように頼もしく力を発揮した。と同時に、法律・制度の枠組みの中で危うい綱渡りを強いられる場面も少なくなかった。「地域作業所」から「障がい福祉サービスの事業所」として転換し、実りの里が組織としての動きを求められるようになると、桜庭さんの前職で培った手堅さが功を奏した。大事なことは、小規模な事業所としてのきめの細かさや、一人ひとりのニーズに合った支援という根幹の部分が失われることなく桜庭さんに引き継がれたことだ。組織は拡大発展すると職員の増員や入れ替わりもあり、どうしても初期の目的からかけ離れてしまう。方法論の違いが多少あっても、設立時の理念が受け継がれれば違う道に進むことはない。桜庭さんは確実にそれを継承していた。

支援者として桜庭さんが歩む中で強く意識させられたのは、障がいのある人のケアは、日中だけで完結しないという点だった。作業所もデイサービスも日中活動の場は、送迎の時間を除くとそこに滞在するのはたかだか6時間弱に過ぎない。移動や睡眠の時間を差し引いても、一番長い時間を過ごすのは「生活の場」となる。

現状では障がいのある人の生活の場は、家庭であることが多く、支えるのは必然的に家族になる。たとえば生活習慣病を防ごうと事業所で配慮しても、家で本人の嗜好のままの食事にすると、病気は防げない。しかし、家庭以外の場はまだ未整備で生涯住み続けられる場所は少ない。里見さんの場合、両親が死去し実家で生活できなくなってから、アパートの数室を借り上げた生活ホーム、木造平屋建ての賃貸住宅(一軒家)、介護サービス事業者が契約した木造2階建ての共同住宅、福祉ホーム、有料老人ホームと住まいを転々とした。それは里見さんの障がいやそれに伴うニーズにぴったりの居住場所がなかなかみつからなかったことにも原因があった。

日中の支援と住まいでの支援

日中の支援を担当する桜庭さんは、支援に一貫性を持たせるために、住まいで支援する人たちと連携し、情報を共有しなければならない。これは様々な支援で生活が組み立てられている高齢者支援と同様で、サービス担当者会議の開催は今日では当然のこととなっている。しかし、現実には情報共有や連携はいつもうまくいくとは限らない。

地域を支援の場とするようになって20年以上になるが、支援の場ではまだ「チームで支援する」という考え方が根づいてはいない。病院や入所施設など同一組織であれば、他職種が互いの専門性を尊重し連携できるが、同一の専門職で所属先が異なると、他者の意見を取り入れることを嫌う支援者も多い。支援者ごとに支援に対する考え方が微妙に異なるところもある。誰が支援の「核」となるかはたやすく決められない。

しかしバラバラな支援では重複や欠落が生じ、結局、利用者が不利益を被ることになる。互いの価値観の違いを調整し、何が本人にとって大事なことかを確認することは、特に看取りのプロセスでは、必要なことのように見える。高齢者支援で「人生会議」と称されるチームとしての意思確認が始まっているが、それは障がいのある人についても同様に大切なことといえるだろう。

死のプロセスと支援

桜庭さんは、里見さん逝去後も、しばらく悔やんでいた。それは長年支援してきた里見さんの不在という感傷的なものではなく、病院に入院したため事業所に通所できなくなり、不可避に支援を中止せざるを得なくなったことにあった。里見さんには、誰かに最期の意思を伝え思いをくみ取ってもらう場面はなかった。医療者以外との関わりがないまま、病院のベッドで静かに死を待つだけだった。それが桜庭さんには、里見さん自身の望んだ命の全うの仕方だとなかなか思えなかった。

わたしたち一人ひとりの死に対する気持ちは刻々変わる。まだ死が遠いときと差し迫ったときでは大きく異なる場合も多い。たとえば私が見守っている87歳の高齢者は「もういつ死んでもかまわない。検査をして治療するようなことは避けたい」と日頃から口にしていたが、血圧の上昇傾向が何日か続くと急に脳梗塞や心筋梗塞の不安が膨らみ、いくつかの検査を受けている。

その検査自体も高齢になると身体に負荷がかかって正確な検査データが得られないばかりか、それを契機に体調を悪化させる。何軒か検査せずに納得のいく診断をしてくれるクリニックや病院を訪ね歩き、結局しばらく様子をみようということになるが、そこまでに実に数ヶ月を要している。

ことほどさように死への気持ちは一様ではない。そこに死に対する漠然とした不安があるからなのだろう。横浜市は人生会議に至る前に、もう少し終末期医療に対する気持ちを整理してもらおうと「もしも手帳」と名づけられた手帳を作成している。これはいくつもの項目を記入するエンディングノートとは異なり、たかだか見開き2ページほどの簡便なものだ。死に対する気持ちの変化を見越して、変化するたびに書き直し刷新してほしいという願いが込められている。

 

桜庭さんは、死に向かって刻々変化するそのプロセスに付き添うことこそが支援ではないかと漠然と考えていた。里見さんはことばによって表現することは少ない方だった。生まれた時から障がいがあったことと一人っ子でもあり、周囲があまりそれを求めなかったためかもしれない。

しかし彼はことばにしなくても、ある程度自分の死について考えていたと私は感じる。実りの里を訪れたある日、送迎車を待っていた里見さんは私に近づき、「この本読んでいるよ」と『地域・施設で死をみとるとき』と題された本を掲げた。その本は、何人かの支援者の看取りの実践報告を私が編んだもので、職員の参考になればと事業所に置かせてもらっていた。私がお礼を述べると「いろいろ考える」と返事をし、それ以上は語らなかった。しかし進んで読みたいと思えるようなタイトルではないその本を、他にも数十冊並べられている本棚から手に取り読み進めていたところに里見さんの意思が感じられた。

治療法の選択

死へのプロセスへの関与の他に、桜庭さんの後悔にはもうひとつ別の側面があった。当時里見さんは、有料老人ホームに住みながら実りの里に通っていた。そこでは胃瘻は認められていたが、経管栄養には対応していなかった。経管栄養に対応するためには、定期的に行なう抜管と挿管の技術を持つ看護師が24時間常駐するという条件をクリアしなければならない。その点胃瘻は、看護師がいなくても対応できる。介護施設は、日中は看護師がいても夜間帯は介護職員のみのところが多い。そのため看取りまで対応するには、経管栄養より胃瘻の利用者の方が必然的に多くなる。

ところで、終末期には、誤嚥性肺炎を起こして入退院を繰り返すようになるが、医療費削減の背景もあり、急性期病院では通常は3週間くらいで退院を勧告される。胃瘻にしろ、経管栄養にしろ入院前と同じ状態のまま退院できるわけではなく、介護施設に戻れないと結局行き場所がなく「介護難民」とならざるをえない。

幸い里見さんの場合、入院した急性期病棟に療養病棟が併設され、たまたま空きが生じたためそこに転院することができた。しかし、療養病棟は看取りまで行えるが、枠組みとしては医療保険による医療提供の場であり、障がい者総合支援法による生活の場ではない。実りの里への通所は制度上不可能となり、自動的に退所となった。これは、桜庭さんにとっては、心の準備なくいきなり支援を終了したに等しかった。

里見さんの死後、病院の担当医から聞いたところによると、里見さんの場合、胃瘻は側弯があり臓器の位置がずれていて内視鏡が入れられないことから不可能であり、処置の施しようがなかったという。4か月経ったころ、経鼻胃管を抜管し新しい管に交換する必要があったが、里見さんの首に変形があるため、その抜管、挿管が困難だった。管による栄養補給ができなくなると、余命は長くて1ヶ月程度と言われている。最期の手段として中心静脈栄養で命をつなぐことはできるが、里見さんの場合は頸動脈を傷つけるリスクがあり、難しいとの判断だった。

死がさし迫ってきたときは、どうしても取り返しがつかないという感情に圧倒される。そこに至る前に、障がいがある里見さんに考えられる可能性を一つひとつ検討していれば、悔やむ気持ちは少し和らいだかもしれない。しかし、現実は血縁者の意向が真っ先に尊重される。たとえば認知症があり、成年後見人をつけていても、後見人は医療の意思決定には携われない。「遠くの親戚より近くの他人」ということばもあるように、本人と頻繁に接触し意思を代弁しうる関係にある人が関わる方が適切なのだが、医療者は伝統的に血縁を重視する。万一の訴訟にも備えて血縁者への説明を行ったという手続きを重視するのかもしれない。そして事実、従姉妹は延命拒否の書類にサインしていた。

しかし、高齢社会では、血縁者がおらず天涯孤独の高齢者も決して少なくない。一部の支援者によって安易に意思決定されることのないよう、人生会議というチームで話し合う仕組みができた。障がいのある方の場合、障がいによって取り得る措置が制約されるため、高齢者にもまして何を選択するかは複雑となる。血縁者であり任意後見人でもあった従姉妹は金銭管理が自分の役割と考えていて、死に至るプロセスのキーパーソンになることは想定していなかった。それがあたかも財産管理だけを重視しているように映り、早くから連携することに抵抗を生じさせた可能性もある。

同様の悔いを繰り返さないためには、その人個別の障がいが、老いと死のプロセスの中でどのような事態を引き起こすのか、さまざまな情報を整理して備える必要がある。そして事業所、有料老人ホーム、病院の支援者が、本人や従姉妹をサポートしながら情報交換を繰り返し意思決定していく場が持てたらと願う。しかし、それに着手するのは、死の直前すなわち誤嚥性肺炎で入退院を繰り返すようになった時点より前でなければ間に合わなかっただろう。ここに死について準備する難しさがある。

介護はどうしても1分1秒でも長く生きることに焦点を当てがちで、死の直前まで生に視点が置かれている。その中で死に関して話し合うことは唐突感もあり、ある意味、決意も要る。しかし長寿社会で本人の希望にそった死を迎えるためには、何が大切なのか複数回話し合うことが必要になる。死の数年前から看取りの本を手に取り読んでいた里見さんだから、そのような話し合いを拒否することはなかったのではないかと思う。

(つづく)