第19回
障がいを抱える方の天寿とは?
里見さんとの出会い
障がいのある方は昔から短命だといわれてきた。障がいが病気と密接に関連する場合が多いからかもしれない。加えて、「拘縮」を悪化させるなど、障がいによって老化が促進される側面もないとはいえない。しかし、現代医療の進歩はめざましく、障がい者の寿命も確実に伸びている。ここでは、重い障がいのある方の「老い」と「死」について考えてみたい。
私が里見さんに初めて会ったのは、今から20年ほど前だった。アパートを借り上げて「生活ホーム」として運営されていた一室で、ひとりパソコンの画面に向かっていた。前の晩の雪がまだ地面を覆い、家具や調度品もなくがらんとした部屋に冷気が入り込んでいっそう肌寒かった。20年前といえば今と異なり、誰もがパソコンを駆使する環境ではなかった。里見さんは畳に座りパソコンを操作していたが、時間があれば自由にネットサーフィンするという。そのことに一種畏敬の念を抱いた。それは、「重い障がいがありながら」パソコンに習熟していることへの感嘆であり、私の無意識の偏見のためかもしれなかった。里見さんは身体障害者手帳上で、「四肢痙性麻痺」という重度の障がいに分類されていた。生まれた時から左半身に軽い麻痺と緊張があった。生活にさまざまな制約があったが、話すことについても、時折、聞き取りにくいことばがあった。本人は気にしていたのだろう、初対面の人とのあいさつでは「僕は言語障害があるので」と必ずつけ加えていた。
まちに出る日々
里見さんが地域作業所に通い始めたのは37歳の時だった。当時、障がいの重い方は、養護学校を卒業すると日中の居場所がなかった。そのため1日中、家庭で介護を受けて過ごし、親の負担は大きかった。障がいが重く寝たきりの方たちには家庭か入所施設かの選択肢しかなく、希望する全員が入所できるわけでもない。その受け皿となったのが入所施設に併設されたデイサービスで、里見さんも1日だけそこを利用していた。
そのような現状を打開したいと支援者の沢村幸子さんは任意団体を立ち上げ、「障がいに見合った活動の場」を提供するために、20数年前、「実りの里」をオープンさせた。法律や制度が未整備のため、外出が主体で屋内の作業がほとんどなくても「地域作業所」の枠組みに入れられていた。親の負担を考えれば、日中預かるだけの場でも役割は果たせたが、実りの里は生き生きとした活動を通して本人の体験の場を増やそうと作られたもので、買い物や食事、余暇活動を体験しようと積極的に街に出ていた。一人ひとり障がいも異なり、移動のたびに身体を抱え上げることなど職員に負担はあったが、里見さんはとりわけこの活動がお気に入りで、外出を楽しみにしていた。
もともと、里見さんは一人っ子で、長く両親とともに生活していた。しかし、通いはじめてほどなくして父親が病気で亡くなった。その後、母親とふたりの生活がしばらく続いたが、母親は認知症となり、特養に入所した。その時、生活費の管理について里見さんの従姉妹にあたる同年輩の女性が名乗り出た。当時は親が存命中に、親元を離れて暮らすという考え方は一般的ではなかった。それが「親亡き後」の憂いにつながるのだが、生きている限り子どもの面倒を見るのは当たり前と考える親がほとんどだった。詳しい事情は定かではないが、母親は自分の万一の時を心配し、あらかじめ姪に頼んでおいたのかもしれない。いずれにしても従姉妹は、自分の役目は金銭管理と認識し生活全般を見守ることを視野に入れていなかった。
そこで沢村さんはアパートを借りて数人の障がい者が生活する生活ホームを開設し、里見さんについては、通所時間帯以外の生活全般の見守りに携わることにした。その頃、措置から契約への流れの中で、障がい者支援の制度体系はめまぐるしく変わり、実り里の運営は任意団体からNPO法人に引き継がれたが、安定した運営のために苦慮や模索が続いた。過渡期に、弾力的に運用し制度からはみ出すと補助金が下りなくなり、経営が成り立たなくなった。一方、契約に移行すると補助金に縛られることはなくなったが、利用希望者は事業所側が集める必要があった。
自力で行うことを見守る
障がい者に対する支援が高齢者支援と大きく異なる点は、障がいの種類、程度ともにまちまちで支援の仕方が幅広く類型化できない点にある。例えば、トイレひとつとっても里見さんの場合は他の障がい者とは異なっていた。バリアフリートイレを想像すればわかるように、通常、障がいがあると洋式トイレを思い浮かべがちだ。これは車椅子の使用を想定しているからだが、障がいのある人がすべて車椅子を使用するわけではない。確かに里見さんは養護学校通学時には車椅子を使っていたが、それは移動が広範囲に及ぶためで、短い距離なら自力で移動できた。
移動の仕方は、正座をした姿勢で床に両手をつき、その手を自分の後方に向かい勢いよく押し出し、反動で前進するという独特のスタイルだった。トイレの使用についても、そのままトイレまで移動し、ズボンなどを下ろして自力で排泄を行うため、和式トイレのほうがむしろ都合がよかった。これは他の利用者のニーズとは合致しない。
そこで、生活ホームを移転する際、ニーズに見合った生活を維持するため、和式トイレつきの古い貸家を借り上げた。食事の用意、入浴等は派遣されたヘルパーが行ったが、支援者のいない一人暮らしは、突然の体調不良や災害等、何か起きたとき時に不安があった。
それでも、このように環境さえ整えば里見さんは自力でできることが多く、本人もそれを強く望んでいた。50歳を過ぎるころまでは室内を自由に移動していた。食事もスプーンを右手に握り、職員が配置したお皿から口まですくうという形で行っていた。また、実りの里の月間予定表の一部はパソコンを駆使して里見さんが作成していた。楽器のキーボードで荒城の月を演奏することもあった。これらは「支援されるだけの存在」ではないことの証として里見さんのプライドを支えていた。
徐々に進む老いと死の足音
しかし、年齢には抗えない。障がいがなくても、年を取ると体が硬くなり痛みが出て、今まで難なくできていたことが難しくなる。里見さんも少しずつ介助が必要な場面が増えていった。特にその傾向が顕著になったのは、誤嚥性肺炎で入退院を繰り返すようになった2020年の2月頃からだった。私たちは普段はあまり意識していないが、飲み込むことも喉の筋肉を使うため、筋肉が衰えると嚥下が困難になる。誤嚥性肺炎はその帰結で、老いが進んでいる兆しともいえた。この時期しばらくは、できる限り誤嚥を起こさないような食形態への移行で対応する。実りの里ではペースト状の食事や、トロミをつけた水分の摂取を心がけた。
やがてそれも次第に受けつけなくなり、入院した病院では嚥下の状態から経口での摂取は困難であると告げられた。障がいがなくても、老化によって嚥下が困難となると、胃瘻か経鼻経管栄養の2つの選択肢が示される。これは当然、本人及び家族に説明されるのだが、衰えが進んでいると本人の気力、体力、理解力もあり、家族が決める場合も多い。里見さんの従姉妹は、本人の意思を代弁する形で経鼻経管栄養を選択した。これが里見さんのその後の「生活の場の選択」に大きな影響を与える分岐点となった。
2週間ほどして誤嚥性肺炎は完治し体調も回復したが、たまたま空いた同じ病院の療養型病棟に移っていた。胃瘻をつけている居住者を受け入れる施設や住宅は多いが、経管栄養に対応できる場所は病院以外にはなかったからだ。しかし、体調が回復すると、ほとんど娯楽のない療養型病棟で最期まで生活することは著しく生活の質を下げることになる。実りの里の職員は病院以外で生活できないかを模索したが、打開策を見いだせないまま3ヶ月ほど経った。経鼻胃管の交換は頻繁にしなければならならず、何回目かに抜管したところ、新しい胃管を挿入することができなくなった。これは栄養補給の道が断たれることを意味する。あと数週間かもしれないと病院から告げられる。
たとえ最期の日が近づいているとしても、里見さんがこのまま病室でたったひとりで死を迎えることのないように何をすべきか、実りの里の職員は日々悩み、話し合いを重ねた。しかし、社会状況はコロナ禍で面会もかなわない。ちょうど里見さんの62歳の誕生日の6月1日が近づいてきていた。そこですこし早めではあったが、利用者に参加してもらいハッピーバースデーの動画を作成した。そして職員全員でメッセージカードをつくり、それを5月26日のリモート面会の際にパソコン越しに見てもらった。現物は後日、病院の看護師を通して本人に手渡した。それが、20年近くともに時間を分かち合った里見さんに対する仲間と職員からのエールだった。里見さんは画面の向こう側でそれに答えるように「みんなありがとう」といつになくはっきりことばを発していた。
このようにしっかりした状態の里見さんを見るにつけ、胃瘻や経鼻経管栄養以外の方法で、命をつなぐことができないか、なおも模索は続いた。栄養補給をしないことは消極的に餓死を招くように思われ、腸に栄養を送る以外の方法、中心静脈栄養等の可否について病院に聞き合わせた。しかし積極的な回答はなかった。
6月1日18時頃、呼びかけにも反応がなくなり、病院から従姉妹にすぐに来てほしいと連絡が入る。従姉妹は19時30分頃にかけつけるが、実りの里の職員は部外者のため面会はできない。このときは持ち直して、「あー」と声も出し少し手も動かしたため、従姉妹はそのまま家に戻った。翌朝、9時20分頃、呼吸や意識が低下し再び病院から呼び出しがあった。このときは、意を決し職員も病院に駆けつけ、「親族」ということにして従姉妹とともに療養病棟へ入った。しかし10分ほど前すでに息を引き取っており、最期に立ち会うことは叶わなかった。12時25分、医師の死亡の確定が行なわれた。そのとき医師から、栄養補給のために希望した中心静脈栄養は頸動脈を傷つけるリスクがあり難しかったと説明を受けた。このようにして里見さんは誕生日の次の日、静かに62年の物語を閉じた。
(つづく)