第18回
ケアされながら能動的であること
「あるがまま」を受け入れる
咲さんは聞き取りの中で、自然なことばを紡いでいた。心の内は見えないが、何かに遭遇するたびに、我が子として生まれてきた寛人さんの「あるがまま」を素直に受け入れていたように見える。「這えば立て、立てば歩め」ということばもあるように、多くの親は子の成長を強く願う。親の立場で、あるがままを受け入れるとは一体どういうことなのかと、咲さんの語りを繰り返し反芻した。
実は、障がいのある子どもを育てているお母さんに私はずっと苦手意識があった。彼女たちの多くがパワフルなこともあったが、自分には到底超えられないような壁をいくつも乗り越えてきたことにある種の「引け目」を感じていた。しかし、咲さんはそれを感じさせなかった。あくまでも自然体で、壁があったとしてもさらりとくぐり抜けてきたような軽快さが彼女にはあった。
しかし、「あるがまま」を受け入れることは、そんなに簡単ではない。私個人としても、福祉の支援を考える人間としても、これは長年のテーマでもあった。
私たちは、自分にも他者にも、こうあれたら、もう少しこうなればという願いを抱きがちだ。それはある種の「欲」のようなものであり、そのような欲があるから向上あるいは成長につながるともいえる。ただ、自分に向けて抱く願いと他者に対してのそれは全く異なる性質のものだろう。自分のことなら目標にして努力できるが、他者の場合、こちらの願いは私を基準にしたものだ。他者が別の人格である以上、その願いを共有できるとは限らないし、むしろ外側の物差しで自分が測られることに抵抗感を持つだろう。たとえ押しつけることはなく、力を行使して変えようとしなくても、その願いをもって接する限り、自分をそのまま受け止めてもらえないと感じ取る。それは、私たち一人ひとりに与えられている自由(そこには体験することも含まれるが)を奪う。
障がいをもって生きることも本人にとってはひとつの権利であり、障がいがあるからと周囲が保護しようとすれば、自由に生きる権利を奪うことになる。おそらく咲さんは、この世に寛人さんが生まれてきたことを、親子であることを、誕生の瞬間から全身で受け止めたのだろう。他の子どもにできることができない、それが教育や福祉の制度の中では「障がい」として位置づけられることは、咲さんにとって真っ先に頭に浮かぶことではなかったのだろう。
人が存在する意義
そのように考えると、あるがままに受け入れるための一つの鍵は、比較しないことの中にあるのではないか。考えてみれば、私たちは常に何かと比べている。冒頭の私の引け目は、すでに自分と他者を比べている証といえる。自分と周囲の人たち、我が子と友人の子ども、障がいのない子と障がいのある子といった具合に、人は自分の現在地の把握を他人との比較を通して行おうとする。背中が見えないように、自分を客観視することは難しく、そのような比較によってしかつかめないところにも原因があるのかもしれない。
しかし、金子みすずではないが、私たちひとり一人は唯一無二の存在で、人とは比べられない。もとより、この世に生まれ生きていく時、自分がこの人生で実現したいことも人それぞれなのだから、比べることに意味はない。そしてそれは、時間軸の中でもいえることなのだろう。過去と現在を比べない、来ていない未来を思い煩わない。過ぎてしまった過去に戻ることはできず、未来も必ずそうなると決まっているわけではない。私たちにできることはただ、眼前に繰り広げられるこの今を精いっぱい生きることだけだ。
障がいのあることに気づかず純粋に我が子と対面したことを喜んだ誕生の時にも、育児の過程でおぼろげな輪郭が明確になり不安で押しつぶされそうになった時にも、その瞬間に真実があり咲さんと寛人さんの心の奥底のふれあいがあった。「今」この一瞬一瞬を無心で生きる、それが唯一無二のかけがえのなさであり、自分も他人も含め人間というある意味不完全な存在への肯定なのだろう。
高齢者の「存在の肯定」
しかし、高齢者の場合は少し事情が異なるように見える。それは高齢者の意識の大半が「衰えていく以前の自分」にあるからだ。この連載にも度々書いてきた。衰えていく過程の高齢者が、「ただ存在するだけで意義がある」と本人も家族も認められることが死へのプロセスとして重要だと。しかしそれは私の頭の中で思考としてとどまっていて、どうすれば頭のてっぺんから足のつま先まで実感としてそう思えるのか語れないもどかしさがあった。
老いることはしばしば「複合喪失」として語られる。仕事を失い、人間関係を失い、身体機能を失い、老年期は失うことばかりだという。
確かに、高齢になるにつれて衰えが進み、今までできていたことがだんだんできなくなると、それをそのまま素直に受け入れられる人はそれほど多くはない。今までの自分を基準にすれば、「自分にできないはずはない」と思う。意識はできていた過去にあって、できなくなった自分になかなか更新されない。「壮年期の自分」がアイデンティティの完成形とすると、老いていくことはその形が削られていくように見える。周囲が現実を突きつけると激しく抵抗し、認めまいとする。自分のアイデンティティは「できていた自分」にあり、できなくなった自分は「不完全な自分」ということになるのだろう。
人間の体は毎日1兆個の細胞が生まれ変わるというから、同じ自分である保証はどこにもないし、いくつになっても新しいことを始められると挑戦する人もいる。限界を設定するのは周囲ではなく、実は自分自身なのかもしれない。かつての自分と比較して欠けていると実感しても、この時点ではそれがありのままの姿なのだから、不完全な自分を受け入れないことは、結局、今を否定することなのだろう。
受け身の中での意味の発見
ここにひとつの問いが浮かぶ。すべてのことを自分ですることに価値があり、それができなくなったら、人間として価値はないのだろうか?死の受容5段階説を唱え、死について省察したキューブ・ラ・ロスでさえ、晩年は脳梗塞を起こし介護が必要な我が身を呪ったという。おそらくロスは、繰り返し自分の状態について思いを巡らしたのだろう。そして「ライフレッスン」の「幸福のレッスン」と題された章で、次のように深めている。
「わたしはほとんどの時間を、ただ存在しているだけの状態ですごしている。この状態がいつまでもつづくとしたら、すぐにでも死にたいものだ。まえにものべたが、自分が滑走路で故障した飛行機にとじこめられているように感じることがある。空港の搭乗口に戻る(それは病状の回復を意味する)か、それともいっそのこと離陸(それは死を意味する)するか、どちらかにしてもらいたいのだ。選べるものなら生きることを選びたいが、そのばあいの「生きる」は、また歩けるようになって、庭仕事をはじめ、大好きな活動ができるということを意味している。元気になれるのなら生きたいという、身勝手な願いである。いま、わたしは生きているのではなく、ただ存在しているだけだ。でも、ただ存在しているというだけの状態であっても、ささやかな幸福を感じる瞬間がある。こどもたちがきてくれたときは幸福になる。生まれたばかりの孫のシルヴィアと遊ぶときはとくに幸福になる。また介護してくれているアナも私を笑わせ幸福にしてくれる。こうしたささやかな瞬間が、ただ存在しているだけの状態に耐えさせてくれている。」
能動的に何かができるわけではない。それどころか、生きていくことにさえ誰かのケアを必要とする。その受け身の状態を、もし高齢者が「周囲に迷惑をかけている」と受け取ってしまえば、生きていくことは苦痛でしかないだろう。そのように変化した自分を受け入れれば、「他者の迷惑」という視点ではなく、「世話を受けながらも生きていくことのできる、生かされている自分」に自ずと視点が置き換わるということなのだろう。
しかし、一直線にそこに至るわけではなく、関門をくぐり抜けなければならない。大方の人は自分の身に予期せぬ何かが起きたとき、何が原因なのだろうと理由を探ろうとする。咲さんも語っていた。「なぜ、我が子に染色体異常が見つかったのか、診断を受けたとき考えずにはいられなかった。ずっと健康には気を遣い、髪を染めたこともなく、飲酒、喫煙もせず、極力オーガニック食材を使っていた。染色体異常は、受精後間もなく起きる異常分裂なので、親由来でない限り、特に原因は分からないとも説明され、後日、私と夫の染色体も調べたが、異常はなかった」と。
原因がわかれば少し心が落ち着くところがあるのかもしれないが、自分や家族の身に何かが起き、なぜそうなったのかと考えても理由がわからないことの方が圧倒的に多い。相手が悪い、他人が悪い、社会が悪い、環境が悪い、そうやって原因を自分の外側に探しがちになるが、それで納得できるわけでもないし気持ちが安んずることもない。過去に戻れないならば、起きたことは起きたこととして、今それにどう立ち向かうか、それは自分で選択でき決められる。これを何らかの学びの機会と捉えることもできる。注意深く長い人生を振り返ってみると、似たような状況は過去にもあったと感じることは多い。あのときはとても乗り越えられないと思い直面しなかったことが、歳月を経てまた自分に降りかかっているような気がすることもある。それも含めて、人生の意味をどこに見いだしていくかは、私たちひとり一人に選択権があり、自分で決定した結果であるように見える。
意のままにならない状況の中で介護されることは受け身に見えるが、存在のあり方で周囲に何かを伝えることは決して不可能ではない。振り返ってみれば、私の父がそして母がだんだんと死に向かっていると感じたとき、交わされた会話は「寒い」「痛い」「疲れた」などごくごく単純なことばだった。
しかし、父も母も死に向かう過程を全身で教えていると私は受け取っていた。おそらく本人も意識的ではなかったのだろうが、たたずまいを通じて何かを伝えることはでき、伝えられた方もそれを表面的にではなく、深いところで受け止めることができる。その相互作用によって、双方の間で了解可能な領域が拡大する。もしかしたら、それが高齢者の老いる中での成長といえるのかもしれない。残された側も、死後にあれは何を意味していたのだろうと深く考えることで、理解することもある。
そのような伝達が、身内が最後に施す「教育」であるなら、ケアや介護を身内だけで抱え込むことはそれを妨げてしまう可能性もある。ケアも介護も、毎日正確な手順にそって行うことがとりわけ大切であり、それゆえに定型化しやすい。ひとつひとつの手順に深淵な意味を見出していいたら、介護は進まない。定型化できる手順は状況によっては他者にゆだねても、最期の時は、無言で発信されている何かを受け止めることで、ケアされる側、ケアする側に成長がもたらされるように思えてならない。
(つづく)