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寛人さんとお母さんのタペストリー

重度の障がいがある寛人さんがことばを用いて表現することはない。しかしそれは何も伝えていないということではない。表情、手や足の動き、声など全身で伝えていた。それを正確にキャッチできたのが両親だった。もちろん傍らにいる人たち、たとえば教員や支援者もできる限りそれを受け止めようとする。しかし、はるかに接する時間が長い両親はその積み重ねの中で、「こういうときにこういう表情になる、このような声を出す」と読み解けた。ここでは、母親の咲さんからの聞き取りを通して浮かび上がる「親子の物語」を描こうと思う。

我が子と障がい

妊娠がわかったとき、多くの母親がそうであるように、咲さんは我が子の誕生をとても楽しみにしていた。不安はなかったが、勧められるままに出生前診断は受けた。一般的に実施されているトリプルマーカーという血液検査だった。この検査を受けるとダウン症(21トリソミー)やエドワーズ症候群(18トリソミー)、パトー症候群(13トリソミー)など、染色体異常の確率がわかるとされ、産科では検査を勧められることが多い。検査の結果、特に問題はなく、確定診断である羊水検査の必要はないと言われた。聞き取りの中で咲さんは次のように語っている。「現在行われている新型出生前診断なら、もしかしたら事前に分かったかもしれませんが、結局、生まれてくる運命だったのでしょうね」と。咲さんが検査を受けた9年後に、血液中のDNAを調べるタイプの「新型出生前診断」が本格的に導入され、確かに精度は上がったようだ。しかしどんなに精緻な検査となっても、すべての障がいがわかるわけではない。

先天性の内反足と診断されたことも、ミルクの飲みが悪かったことも、咲さんはそんなに気に病んでいなかった。ただ生後10ヶ月の時、病院の遺伝科を紹介され「染色体異常」と診断されたときは、さすがにショックを受けたのではないかとためらいつつ質問してみた。検査結果とともに、医師から症状として次のような指摘と助言があったという。「軽度から中等度の知的障がいがある場合が多いが、個人差がある。お父さんが長身なので、遺伝の影響を加味しても背は高くなるだろう。染色体異常全般に短命といわれているが、医学の進歩で寿命は伸びてきている。てんかんを起こすかどうかは、個人差がある。とにかく刺激を与えることが大切で、障がいのないお子さんの何倍も繰り返すと、少しずつ出来ることが増える」と。

診断されたのは生後10ヶ月の時だったから、その間の子育で寛人さんの発するさまざまなサインから、咲さんは気づきを得ていた。「とても我慢強く、親を困らせることのない赤ちゃんだったので、いろいろな可能性を説明されたが、あまり深刻には考えなかった」。

「優秀な子どもだったら、教育熱心になったかもしれないが、知的発達の遅れがあるなら、そのペースに沿っていこうと考えた」と振り返る。息子の誕生以来、母子医療センターや成育医療センター等数々の医療機関で、様々な病気、障がいや奇形のある赤ちゃんや保護者に出会った。その人たちは、障がいのない子と同じように当たり前に子育てしていた。そのために、診断を受けても気持ちが大きく変化することはなかった。生後2日目に内反足で、直ぐに医療、療育と繋がった経験はこれから先もそうであろうと思えたし、周囲の人たちの姿から日々できることをしていこうと意識せずに学んでいた。

普通に考えれば、初めて授かった子どもに重度の障がいがあると知った時、ショックを受けない親は少ないだろう。『障害をもつ子を産むということ』という19人のお母さんたちの手記があるが、そこには母親としての偽らざる心境がつづられている。ひとつとして同じ状況はなく一括りにはできないが、「奈落の底に突き落とされるような思いを味わった」という点は共通していた。

かくいう私もかつて病院の相談室に勤務していて、産院から救急搬送されすぐに手術を受けるたくさんの赤ちゃんを見てきた。そのため、我が子についても元気に生まれ無事に育つというイメージが持てず、誕生直前までかなり神経質になっていた。

しかしこの「障がいのある子」という認識が、そもそも間違いなのだろう。生まれたばかりの子どもをカテゴリーの中に入れる親はいない。カテゴリーは教育や福祉の制度の中で、後年、必要になるが、咲さんにとってはあくまで「我が子寛人」なのであり、その子が内反足だった、染色体異常があると言われたということなのだと思う。

咲さんは幼少期から高校までピアノを習っていた。「里帰り出産のために実家に帰省したとき、胎教を意識してピアノを弾くことが多かった。いろいろな曲を弾いたが、ドビッシーの「月の光」を弾くと、とりわけ元気良くお腹を蹴った。そして誕生した後も、テレビでこの曲が流れると必ず振り向いた。この曲は息子の心に深く刻まれていた。」という。ちなみにこの曲はお別れ会でも献奏の曲として流れた。寛人さんが育つ過程で見せたこのような反応のひとつひとつが咲さんの喜びとなり絆を育み、客観的な基準に左右されず、人格のあるひとりの人間として寛人さんに接することを可能にしていた。

 

地域の中での子育て

関西出身だった咲さんは、地域に知り合いもなく、縁もゆかりもない土地で子育てしていた。そこで、一度もいやな思いをしたことがないと語る。私の知るその地域は障がい者施設に対する反対運動もあり、人に踏み込まれることを嫌い孤立している高齢者も少なくなかった。想像するに咲さんの明るさやこだわりのなさが、地域の人たちにある種の影響を与えていたのではないかと思う。咲さんは自分だけで育児を抱え込まず、むしろ積極的に外に出た。学齢期に達するまでは「地域訓練会」に通い、小学校2年生からは障がい児のための放課後デイサービスも利用した。児童福祉法でようやく制度化された直後だった。

育児の負担が軽くなった隙に通信教育で社会福祉士の受験資格を取り、国家資格を取得した。社会福祉士は業務独占の資格ではなく、さまざまな制度・サービスにつなげる、グループや団体を結ぶという黒子的な手法を活用するため、活動が表面化しにくい。資格を得て、咲さんは当事者家族から少しずつ活動の場を広げた。

まず、養護学校中学部のPTA会長になった。PTA会長はその学校の保護者代表という側面もあるが、他校とのつながり、地域とのつながりなど外に向けての活動も多い。それは学校内にとどまらず、周囲や社会との関係をより重視することを意味していた。咲さんは寛人さんを大切にしていたが我が子一辺倒になることはなかった。活動の中でいろいろな思いを持ったPTA仲間たちに出会い、障がいの種別や程度、所属する学校、世代を超えて繋がり、自分の経験や情報、課題を共有した。

さらには、さまざまな団体や地域の方々と繋がるための組織を立ち上げた。活動の一環として、大学の馬術部と協働しホースセラピーの機会を設け、馬たちと触れ合う機会を作った。寛人さんが旅立ったのは、有志たちとの準備を終え、活動がスタートした矢先だった。

日々大切に生きる

1年経っていたとはいえ、咲さんは私に語りながら、ほとんど涙を見せることはなかった。「寛人パワー」の話をするときなど、むしろ楽しげだった。「あの子が外出するとき雨が降ったことがなく、ベビーカー用に準備した雨具を使ったことがなかった」「転居した時、養護学校のバスポイントが自宅のすぐ近くにあると後から気づいた」など、不思議なことは数々あった。それを咲さんは「寛人パワー」と名づけていたのだ。

咲さんには、寛人さんが喜怒哀楽をストレートに表現することを通して、自分に必要なものを引き寄せているように見えた。就学前に地域の訓練会に所属し、ヘルパーさんに手助けしてもらった時、できないことができるとその人はとても喜びほめてくれた。人に手助けしてもらうことは決して受け身なことではなく、そうやって人を喜ばせることのできる我が子の姿が素晴らしいと感じていた。咲さんは寛人さんのケアの中で、ことばでない全身の表現から、「かすかな微笑みや瞬きからでも周囲に喜びは伝えられること」「ものの見方は視点の置き方によって変わること」「何が起きても動転せずに落ち着いて取り組めばいいこと」などを知らされた。寛人さんがことばとして語らなくても、親子の阿吽の呼吸の中で咲さんが掴んだ感覚なのではないかと思う。

咲さんが所属し、あるいは作り出したさまざまな活動は、物言わぬ寛人さんを通してもたらされたものだった。母親が子どもを育てるという形を超えて、まさに二人三脚の営みといえるだろう。咲さんのことばに気負いや無理が全くないのは、体験の裏づけがあったからであり、寛人さんとの一瞬一瞬の中で、親子が力を尽くして精いっぱい生きたからだろう。それは完全燃焼に近く、悔いを残さない。寛人さんはそれを見届け安心してこの世を去ったのではないかと、咲さんの目の輝きをみつめながら私は確信した。

咲さんの語りは、わたしにさまざまなことを考えさせてくれた。今思えば、お別れ会が湿っぽいものでなかったのも、語りながら咲さんがほとんど涙を見せなかったのも、寛人さんとともに咲さんがその瞬間を精いっぱい生きたからだった。そして今、寛人さんとのつながりを通して出会ったたくさんの人々と、障がいがある、なしを超えて地域に、社会にさまざまな絆を作ろうと、咲さんは歩み続けている。咲さんの織り上げるタペストリーに寛人さんの色が編み込まれることはもうないが、寛人色を基調として、さらに織物は編まれていくだろう。生と死は、そのようにつながっていく。

 

(つづく)