第16回
濃密に生きた15年
ご両親との出会い
NPOのことで、司法書士として自宅で事務所を開いている並木和夫さんにご相談があり、自宅をお訪ねしたのは、2年ほど前のことだった。地域活動をともに行う友人から、並木さんご夫妻は重度の障がいのあるお子さんを育てていると聞いていた。さらに1年ほど後に、今度は奥様の咲さんが熱心に取り組んでいる地域活動の情報を共有できないかとご自宅を訪ねた。長男の寛人さんは日常生活に常に介助が必要で、両親のどちらかが見守っていた。玄関を入ると、寛人さんの大きな声が階下まで聞こえてきた。
さらに半年ほど経って、紹介してくれた件の友人が、寛人さんが15歳で突然亡くなったと伝えてきた。15歳の子どもに先立たれることがどんなにつらいことか想像できたから、しばしことばを失い重い気持ちになった。お別れ会は数日後に予定されていた。私の年齢柄、亡くなったという知らせは少なくはない。しかし、生前の関係を考え、なるべく儀礼的な参加は見合わせていた。心から悼む気持ちがなければ、かえって故人に失礼なのではないかと考えていた。ただ今回は、寛人さんに直接お会いしたことはなかったが、慈しんでこられたご両親の悲しみを思うと、参列せずにはいられない気持ちだった。
地域の人たちに送られたお別れ会
お別れ会の日は、やがて3月を迎えようとするやや寒い夜だった。会場にはすでに大勢の人の姿があった。そこには、普通の会葬とは違う光景がふたつあった。ひとつは、新型コロナウイルス感染症の影が徐々に社会を覆いはじめ、参列者が9割がた白いマスクをつけていたことだ。黒い喪服の中で白いマスクはよけいに目についた。このマスクを巡って和夫さん、咲さんの配慮がうかがわれるエピソードがある。当時マスクは不足していた。備蓄はあったが、私はマスクをつけないまま会場に向かった。今ほど着用が推奨されてもいなかったので、ご両親にマスク越しにお会いすることが弔意の表し方としてふさわしくないのではないかという妙なこだわりがあった。しかし、入手困難な人への心配りとして受付でマスクの有無を尋ねられ、「ご両親の意向です」と1枚のマスクを手渡された。そこで感謝しつつ、私は素直にマスクをつけることにした。
もうひとつ特徴的なことは、会場に集った方々が、通常の参列者と異なりはるかに若い人だったことだ。それぞれ学校の制服に身を包み、保護者とともに参列していた。そのため、漂う雰囲気に重苦しさや沈んだ感じがほとんどなかった。当初それは、参列者のはち切れそうな若さのためなのかと思ったが、式が進むにつれてその理由が明らかになった。
式は無宗教で行われた。開式と同時にピアノ、ヴァイオリン、フルートの演奏家による音楽が静かに流れた。三重奏の響きで荘厳な雰囲気が作られた。そして在りし日の寛人さんの躍動感あふれる姿が両親のすぐわきのスクリーンにスライドショーとして映し出された。その映像から、生前会ったことのない私にも、寛人さんが全身で生きて来た姿が伝わってきた。参列者の多くは特別支援学校の生徒で、食い入るように画面を見つめていた。「そうそう寛くん、こんな風に一緒に過ごしたよね」という声なき声が聞こえてくるようだった。
祭壇には地域の障がい者事業所で製作されたキャンドルが灯され、参列者が歩み出て献花した。そして和夫さん、咲さんがそれぞれ遺族挨拶という形で我が子の思い出と会葬のお礼を語った。おふたりはそれぞれのことばで、つらい思いをすることなく地域で寛人さんを育てられたことへの感謝を述べた。印象に残ったのは、和夫さんが挨拶の最後に少し妻の方を向き「咲ちゃん、今までありがとう」と力強く声をかけたことだ。寛人さんを間にして夫婦はおそらく「同志」でもあった。予期せぬことが起きるたびに力を合わせてきた。和夫さんが家に事務所を持ったのも、できるだけ妻の負担を軽くしたい思いが念頭にあったからだろう。
それでも、子育ての他に家事の多くを担った咲さんの負担は軽くはなかった。この区切りの時に、妻の苦労に報いたいという決意がことばに込められているようだった。やがて、咲さんが地域活動で知り合ったプロのピアニストの力強い伴奏で寛人さんの学校の校歌を全員で歌い、お別れ会は締めくくられた。会が終了すると、私は友人とともにご両親に声をかけた。寛人さんが短くても精いっぱい生きてこられたと感じたこと、今後もずっと傍らで見守っていると思うことなどお伝えすると、お二人は深くうなずかれた。
その後しばらくはメールでやり取りした。身内の死についてことばにするのは周囲の想像以上につらい。この連載を続けるに当たって、今まで多少強引に何人もの方から物語を聞き取らせていただいた。それが亡くなられた方への供養であり、残された方の喪の作業になるとも考えていた。しかし、若い方の死をお母さんから根掘り葉掘りうかがうのはさすがに気が引けた。10か月ほど経った頃、思い切って聞き取りをお願いすると、「寛人の生きた証がそのように残るなら」と咲さんは喜んでくださった。しかし、コロナウイルスの感染が拡大し、なかなか自由に動けるときは来なかった。ようやくご自宅をお訪ねし、お話をうかがったのは、寛人さんが亡くなってから1年以上経った頃だった。
寛人さんの歩んだ道
並木さんご夫妻は大学の先輩後輩の間柄だった。関西出身の咲さんは卒業後家業を手伝うため実家に戻ったが、そのまま交際は続いた。和夫さんの仕事が軌道に乗ったころ、結婚し東京で生活を始めた。咲さんは結婚後、漠然と大学院に入ることなど考えていたが、半年後に妊娠がわかり育児に専念する道を選んだ。3歳までは母親がしっかりと幼児教育をおこないながら育てるという「3歳児神話」の影響もあったかもしれない。胎教の教材を取り寄せ、妊娠中から絵本を読みピアノを聞かせていた。
やがて里帰り出産し、病院で3040グラムの男の赤ちゃんが誕生した。会いに来た祖母が、赤ちゃんの左足がまっすぐではないと心配したため医師に相談すると、翌日、病院内の整形外科で先天性内反足と診断された。さらに医療機関同士の連携で乳児に特化した専門機関を受診することとなった。1か月後にはギブスによる治療が開始され、しばらくして24時間装具をつけるようになった。
生まれた直後は母乳の飲みが悪く痩せていたが、2週間後には上手に飲めるようになりふっくらしてきた。内反足の診断や早期治療、母乳の飲み具合などから、「この子は運がよく、自分で必要なものを引き寄せる力がある」と咲さんは実感した。誕生後も、絵本、論語、英語、百人一首、絵カード等を見せたりしたが、寛人さんは全身で喜びを表現し、育児は楽しかった。ただ、4か月健診の際にまだ首がすわっていなかった。体が全体に柔らかく、他にも心配な点もあり、神経内科を受診することになった。さらに遺伝科を紹介され血液検査を行い、ダウン症ではないが、染色体に異常があることが判明した。寛人さんが10ヶ月の時だった。
3歳からは通園施設に週4日通い、今度は施設の中で理学療法を受けた。学齢期は養護学校に通学した。動き回ることが増えるとともにけがが多くなり、目が離せなくなった。痛みを感じにくいこともあり、例えばガラスコップに膝をぶつけ縫合手術を受け、その後化膿し再手術を受けるなどということがよくあった。
さらに大きな変化は、11歳の時からてんかんの発作を起こすようになったことだった。家族で長崎に旅行に出かけた時、飛行機の中で初めて発作が起きた。翌日も自転車に乗ったまま発作を起こし、意識はあったが20分ほど身体がこわばり動けなくなった。通院中の病院で薬を処方してもらったが、発作を抑えることはできなかった。脳波を取り、正式に点頭てんかんと診断され、さまざま薬が処方されたが発作はむしろ増えていった。頭部や顔面、歯などをぶつけることが多く、今までにも増して目が離せなくなった。
養護学校(2007年から特別支援学校と改められたが、校名にそのままの残している学校が多い)は障がいによって区分されていた。寛人さんは中学校までは知的障がい部門に在籍していた。しかしてんかん発作で脱力し、また服薬により眠気が強くなり車いすを使用する機会も増えたため、高等部からは肢体不自由部門を選択した。
てんかんについてはいくつかの病院を受診し、さらに精密な診断を受けた。薬で改善しない場合、手術も手段として考えられると助言された。そこで、持続的な脳波を測定するため検査入院した。しかし、100%改善する見通しがあるわけではない手術について、両親ともに決めかねていた。発作の後は眠気が強く横になっていることが多く、立ち上がってもバランスがとりづらいようだった。体調には波があり、元気なときには放課後デイサービスに寄って帰宅する日もあった。
その日は、朝7時に起こしたが、眠気が強く7時半ころ軽い発作が起きた。朝食の時、さらに強い発作が起きたため、登校は無理かもしれないと咲さんは様子を見ていた。しばらくして起きてきて登校の支度を始めたので、学校まで送っていった。下校後は放課後デイサービスを利用し、元気に過ごした。夕方6時ころ帰宅し、シャワーした時も様子は変わらなかった。
夕食の時もスプーンを手に持ち、ほしいおかずをトントン叩きスプーンですくおうとするなどいつになく明確に意思表示した。8時ころ、咲さんが食事の後片付けをしている間にいつの間にか眠ってしまった。このようなときいつもなら両親でベッドに運ぶのだが、そのとき和夫さんは県外に出張中だった。咲さんひとりで上背のある寛人さんを引きずるようにして寝室に連れていき、冬の寒い日に汗だくになりながらやっとのことでベッドに寝かせた。しばらくして見に行くと、寛人さんはかなり汗をかいていた。シーツを交換しようとして布団をめくると、爪が紫色になっていて呼吸していないことに気づいた。慌てて119番に電話をかけ、救急隊員の指示に従って懸命に心臓マッサージをしたが、呼吸は戻らない。救急車の到着はいつになく時間がかかるように感じられた。
マッサージが200回を数えたとき、ようやくサイレンが聞こえてきた。慌ただしく病院に運ばれ、出先から深夜タクシーを飛ばしてきた父親の到着を待って、医師は死亡を宣告した。このようにして、突然、寛人さんの物語は閉じられた。あと半月で16歳の誕生日を迎える直前のことだった。
(つづく)