自分の物語を閉じる

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コロナウイルス感染症の中で閉ざされる物語

この連載は同じテーマにそって掘り下げ、2月に一度くらいのペースで更新してきた。折しもソーシャルワーカー竹田さんの急死に直面し、「私の死について考えて」という彼女の声を聴いた。1回目の緊急事態宣言が発令されるころは、13回、14回で掲載した突然死やPPK(ピンピンコロリ)について考え、原稿にまとめていた。しかし、感染症者、死者が増えるとともに、しばし立ち止まりたい気持ちが募った。

原稿のもとになるエピソードを家族、支援者にお会いして直に聞き取るという当初の意図が、難しくなったことも理由のひとつではあった。しかしそれ以上に、この感染症によって、死をめぐる状況に大きな変化がもたらされたのではないかという漠然とした思いを払拭できなかった。渦中にあるとき全体像をつかむことは難しい。わかることはただ、従来の物差しのまま考えると、転換期の死からずれてしまうのではないかということだった。とにもかくにも、どこに変化があるのか、しばし歩みを止めてじっくり考える時間が必要だった。

脅かされる老衰死

高齢者の多くは「ピンピンコロリ」を願ってきた。それは、前回記したように「突然死」そのものより、老衰のプロセスを最後まで体験せずにこの世を辞すことにある。老衰期に多少の痛みや意のままにならない苦しみはつきものであるし、その期間は本人が想像していたよりはるかに長い。そのようなプロセスを飛び越すのが「PPK」であり、自分にも家族にも一番楽な逝き方なのだと考える人は多い。

しかし、コロナウイルス感染症(以下、コロナ)は突然発病し、人によっては急激に悪化する病気であるが、多くの場合、突然死ではない。誰もが感染するリスクを伴うが、特に高齢になると免疫機能の低下もあり重症化率が高まるという。肺炎を起こすと水に溺れたような苦しみがあり、人工呼吸器やエクモの力を必要とする。いつの間にか感染したと知った時、自分は果たしてこの病を克服できるのか、それとも悪化して死に至るのか多くの人が恐怖を感じることは想像に難くない。

そのような身体的苦痛や不安に加え、死に向かう過程に一人で立ち向かうという点も特徴的だ。感染力の強い病気ゆえに、家族はもちろん、医療者とさえ頻繁に接触できなくなる。もちろんそれ以前にも「孤立死」はあり、ひとり暮らしの人が地域の中で誰ともかかわらず死後に発見されることも少なくない。しかし、入院、療養施設、自宅どこにいても、対面する機会を最小限に抑えられる事態は、感染症ゆえの特殊性と言えた。

断定はできないが、私たちの死生観は、コロナによって少なからず影響を受けたように見える。健康寿命から老衰への移行という「穏やかな死」のモデルは描けなくなった。命にまつわることは昔から予測の外だが、長寿社会の中で「順当な死」のイメージは膨らんできた。アンチエイジング、健康寿命の延伸、ピンピンコロリという一連の死の過程は、大きく揺らいでいる。もちろん老衰の過程を妨げる病気は数々あり、例えばがんはその筆頭に挙げられる。受診時にすでに末期がんであれば余命告知を受け、自分の物語はこのような形で終焉を迎えるのかと意識せざるをえない。生活習慣病も厳密に見れば、遠くに上がった死への狼煙ともいえる。

しかしコロナとの大きな違いは、そこに多少の時間の猶予があり、死が本人固有のものだったとしても望めば伴走する人を求められることだろう。スペイン風邪の流行から100年たち、科学や医療の飛躍的な進歩もあり、全世界を覆い尽くすような感染症は起こらないと私たちはどこか楽観していたところがある。そこに、「隙をついて」出現した感染症がコロナだといえる。しかも、大半の人が無症状や軽症で済む中、なぜ「あの人」ではなく「この自分」が感染し重症になるのか、罹患した人の問いに納得のいく答えはなかった。

推奨される感染症対策を心がけても、身に覚えのないうちに無症状の人から感染する状況を目の当たりにし、重症化する要因も基礎疾患の有無とはいえ、それだけでは説明がつかない。そもそも人間の不完全性を考えると、感染を100%防ぐことはできない。中年以降の人々にとって、「明日、自分が未知のウイルスに感染し、死ぬかもしれない」ことが妄想ではなくなった。それに対処するには、悔いを残さないように、1日1日を大切に生きるほかはない。そして、周囲の人とも、いつ死に別れてもいいように覚悟を決める必要もある。それは、PPKと比べはるかに切迫した死への向き合い方で、今まで目を背け、避け続けてきた問題に正面から対峙することを求められている。

 

看取りに与えた変化

コロナは罹患した本人だけではなく、看取る家族にとっても重大な影響を与えている。厚生労働省によると、2020年9月には、感染者は約82,000人、死者は約1,500人だったが、2021年2月にはそれぞれ約421,000人、約7,300人に膨らんでいる。今は第三波のピークが過ぎたといわれ、医療従事者からワクチン接種が始まってはいるが先は見通せない。罹患し、治癒した人の体験は、種々の媒体で発信されているが、死についてはあまりにも突然のことで、本人は語れず、周囲の人の口は重い。

第一波の最中、母親を亡くした30代の男性の場合、4月上旬両親が同時に感染する。発症から1か月後、糖尿病の持病のある父親は人工呼吸器によって回復する。しかし気管支の弱い60代の母親はエクモをつけたが、1か月後に息を引き取った。旅行好きな母をまだ行ったことのない地に連れて行きたかった、介護もしたかったと述懐した後、「何もできないまま、家族の形を壊された。病気だから憎みようがないけど、どうして自分の家族なのか」と述べている(2020年7月21日付朝日新聞朝刊)。

一方、第三波の中で、50代の女性は86歳の母親の死について語っている。2021年年明けに発症。発熱はなかったが、持病の治療のために受診中に体調不良となりそのまま入院、PCR検査を受けて感染が確認された。徹底して感染予防をしていたので、信じられなかったという。医師からは「回復の見込みが少ないので人工呼吸器をつけるかどうか」の意思を確認される。そのころ本人から娘たちに電話があり、生きたいという意思が確認でき、その旨医師に伝える。一時回復の兆しがあり、人工呼吸器をつけてよかったと安堵したが、2月初めに息を引き取った。病室のガラス越しに亡くなる数時間前、姿を見た。近寄ることも体に触れることもできず、火葬を見守ることも、遺骨を拾うこともできず、だれにも見送られない母の心細さを思ったという(2021年2月9日付朝日新聞朝刊)。

病院、葬祭会社によっては、オンライン面会や葬儀に工夫をし、遺族が納得がいく別れができるよう努めているところもないわけではない。しかし生前も死後もなるべく接触しないようにする、これが、コロナ禍の多くの看取りの偽らざる現実といえるだろう。

感染症が蔓延するとき人の出入りを禁ずることは、入院あるいは生活している高齢者を守るために真っ先に考えられる手立てではある。10年以上前のことだが、父が入所中の老健施設でノロウイルスの感染が拡大した時、私も1か月以上施設を訪問できなかった。ノロウイルスは本人の体力にもよるが、感染力も死亡率も際立って高い感染症ではない。しかし、コロナは人によっては急激に悪化する疾患で、未解明な部分も多いため、ともかく厳密に人の出入りを防ごうとする。面会ができない事態がいつもまで続くのかはっきりとしない。

一般の病院では、当然のことながら、患者はコロナに限定されない。例えば緩和ケア病棟に入院し余命を知らされていても、面会が断られる場合も多い。そのため、終末期であると告げられている病気、白血病やがんなどで、第一波の2020年3月末には在宅の看取りに切り替える人が増加し、前年同期比で2倍となったという。最期の時を本人、家族ともに不本意な気持ちで過ごさなければならないなら、覚悟を決め自宅での看取りの体制を整える人が増えたということだろう。それは苦渋の選択ではあったが、皮肉なことに、本人、家族双方がある程度納得のいく時間を過ごせることでもあった。

一方、介護保険施設の面会禁止が思わぬ事態を招いた例もある。2020年4月18日付毎日新聞に、大阪市の住宅で91歳の高齢者と57歳の息子の遺体が発見されたと報じられた。面会制限されていた特養を前日退所し、自宅で介護を始めた矢先の無理心中であったという。報道によれば、母親に会えないことに耐え切れなくなった息子が、自宅に外泊させることを申し出たが受け入れられず、やむなく退所させたという。急な退所で、コロナの影響もあり、在宅サービスを緊急に導入することは難しい。入所する前は自宅で生活できていたという思いもあっただろう。数年の間の母の衰えは漠然と理解できても、長時間会えないままひとりで死なせたくないという気持ちのほうが勝っていたのかもしれない。

これらは、私がたまたま目にして拾い上げた物語であるが、「コロナに影響された死」には、報道されない、またそれを望まない、いく通りもの物語がある。

言えることはただ、コロナは死を数字に変えたということだ。そこでは一切の個別性、すなわちその人の物語が捨象される。もちろん、大きな災害や事件、事故でも数にはなる。しばらくして事故や事件の詳細とともにたった5行の物語が掲載されるが、それで個別性が浮き彫りになるとも思えない。

しかしコロナの場合は、指定感染症として死亡者数の発表を必要としながら、家族は特定されるような事細かなことは伏せたいと願う。これまでもいわれのない誹謗中傷や差別や偏見に満ちた行為はあちこちで起きている。故人の尊厳を守り、自分の周辺にさえ口をつぐみ、わが身にも害が及ばないようにと考える家族も多いだろう。感染症ゆえの特殊性ともいえるが、それゆえに渦中にある時、一層、数字以上の語りを許さない。

死と向き合う契機

日本では、爆発的な感染拡大は食い止められ、医療者の努力で何とか医療崩壊は招かずに済んでいるといわれている。しかし、入院調整中の自宅待機や自宅で療養している間に急速に悪化して亡くなられた方の数の多さ、救急医療破綻の現状を見ると、それは顕在化しないだけとも言える。日本よりはるかに感染者の多いニューヨークでは、人手、病床、呼吸器すべて足りなくなり、だれを治療するかを選ばざるを得ない事態に直面した。そこでは、「トリアージ」の意味合いも含め本人の意思確認が重視されたという。

折しも2020年8 月 4 日、日本老年医学会は倫理に関する提言をまとめた。その中で、どんな最期を迎えたいか、大事にしたい価値観は何か、本人や家族にとってより良い最期となるようなるべく早く話し合うことを勧めている。ここ数年、アドバンス・ケア・プランニング(ACP=人生会議)と呼ばれ推奨されてきたものであり、ことさら真新しい主張ではない。コロナによって80代以上は急速に悪化する率が高まることから、本人の意思に沿わない、いわば無駄な延命を避けようとする動きにも見えるが、むしろコロナを端緒として本人にも家族にも死と向き合ってほしいという点に真意があったのだろう。その後迎えた第三波では、入院は事実上「先着順」のような形となり、順番を待つ間に自宅で亡くなる方も増え、家族、医療者ともにそのような余裕はなくなったように見える。

大事な点は、人生会議が人工呼吸器やエクモをつけるか否かといった医療の選択だけに限定されないことだ。その点だけなら、是か非かに単純化され、状況によって変化する可能性も十分考えられる。いみじくもACPに「人生」会議という意訳がついているように、自分のあるいは家族を含んだ人生をどう総括するか、どのような物語を描きたいのかという全体像が欠かせない。誰もがうすうす承知しているように、生命は永遠には続かない。医療の選択に凝縮されてしまうことなく、正面から生と死に向き合う機会となるなら、「新型コロナウイルス感染症」のこの大きな混乱も、後々振り返って意味あることだったといえるのだろうか。

 

(つづく)

写真:ぱくたそ