第13回
家族のケアの中で貫きたかった「自分」
突然舞い込んだ死の知らせ
自宅の2階に上がったのは、やがて12月になろうというある火曜日のお昼ごろだった。親機の留守電の赤いランプがチカチカと点滅していた。どうやら昨夜9時過ぎにかかってきた電話のようだった。コール音に気づいてはいたが、詐欺まがいの電話も横行しているので、あえて出なかった。実際、留守電がセットされているとそこで切ってしまう電話も多かった。1階は子機のみで、2階に上がって録音を確かめるのも面倒だった。一夜明け、ようやっとランプの点滅を目にし、急な知らせなのだと直感した。あわてて巻き戻して聞いてみると、「竹田明子の娘の柴田です」という聞き覚えのない声が残されていた。それだけ聞いてすぐに次の展開は予想できた。
竹田さんは20年来の知人だった。以前は1年に1度くらいランチをともにし、おしゃべりしていた。しかし、最近は電話になり、気づけばそれもいつのまにか途絶えていた。娘さんとは全く面識がなかった。その人がかけてきたのは、本人が電話できないからだと直感した。心臓の鼓動が高まるのを感じながらさらに耳を澄ますと、「実は、母が金曜日、自宅で急に亡くなりました。葬儀等は身内で済ませますから、お気遣いなく」という伝言が残されていた。
予想通りの展開とはいえ、頭の中を「なぜ?」「どうして?」と疑問ばかりが渦巻いた。今思えば最後となった半年前の電話では、竹田さんは、いつ果てるともなく判で押したように繰り返される日常にうんざりした口ぶりだった。しかし、大きな変化や気弱なそぶりは、声にも文脈にも感じられなかった。
電話をかけてきた娘の柴田由紀子さんは母親とは別世帯だった。竹田さん宅では、1階に竹田さん、2階に竹田さんの長男夫婦と孫が住んでいた。4歳年上の夫は難病で長く竹田さんが介護していたが、それも限界となり、近くの有料老人ホームに入居していた。実質的に竹田さんは一人暮らしだったから、故人となった人の電話に誰が出るのか懸念はあった。しかし、あまりに急な知らせに確かめずにはいられなくなり、ともかく急いで電話をかけた。すぐに柴田さんが出た。名乗ると死んだときに知らせるようにと伝言されたメモの筆頭に私の名前があったと説明したうえで、急死の顛末を語ってくれた。
急な旅立ち
その日柴田さんは、竹田さん宅からほど近い父親の有料老人ホームを訪れていた。入居してからすでに5年ほどたっていた。父親は難病の上に老化もあって食が細くなり、食事介助のために頻繁に通っていた。いつもならその足で母親の様子も見に行くのだが、この日は疲れもありそのまま実家に寄らずに帰宅しようと電話を入れた。数回かけたが、応答はなかった。竹田さんは最近一人で外出することもなく、トイレにしては長すぎる。胸騒ぎは電話をするごとに高まって、思い余って二階に住む兄の携帯に電話をかけた。いつもこの時間に帰宅しているはずのない兄が、珍しく家に帰りついたところだった。
兄は携帯をつないだまま、階下に下りた。冬の午後7時ころで、外はすっかり夜の帳がおりていた。兄は携帯電話越しに状況を報告する。部屋の電気がついておらず真っ暗で、竹田さんはソファーに腰掛けたまま、背中にかすかに温もりがあるが、すでに息をしていないという。悪い予感が的中し、柴田さんは実家にタクシーを走らせた。こんな時、医師に死亡を判定してもらう必要があることは知っていた。そこで、かかりつけ医に連絡した。ひと月あるいは2月に1度くらい受診している開業医だった。
駆けつけてはくれたが、最後の受診は1か月以上前で、死に直結するような病気もないため、警察に連絡するよう勧められた。ほどなく警察の鑑識課がやってきた。1階と2階の区分だけでなく、竹田さんは長男一家とは別の独立した生活を営んでいた。長男も妻も常勤で働いていたから、2階から下りてこなければ何日も顔を合わせないこともあった。
警察官は、当初は長男に質問していたが、介護のキーパーソンが柴田さんだったことに気づくと、質問は柴田さんに集中した。竹田さんの生活パターンを細かく再現し検証した結果、心不全で急死したと結論づけた。警察官から、「お顔にはまったく苦しんだ様子がない」と言われて柴田さんは少し安堵した。竹田さんの人生は、このようにして予期せぬ形で幕が降ろされた。84歳だった。
ソーシャルワーカーとしての気づき
竹田さんは大学で社会福祉を専攻し、卒業後はソーシャルワーカーとして活躍した。入学当時は、戦後の社会がようやく軌道に乗り始めたころで、社会福祉を専攻する学生は多くなく、職業とする学生はもっと少なかった。しばらく障害者施設の相談員をしていたが、その後、大きな福祉団体に移り、企画や調査研究に携わるようになった。状況を俯瞰して分析することにたけていたため、この部署で才能は如何なく発揮された。その後、分析考察した成果をいくつもの文章に書き残している。私よりかなり年上だったが、ソーシャルワーカーの研究会で知り合い、親交を深めていた。
竹田さんと私は、制度サービスの枠組みに規定されても、より質の高い福祉をどのように実践するかを模索していた。そして死に対する関心が強い点にも共通性があった。支援の質を高めるために、ソーシャルワーカーは人の死を視野に入れ支援する必要があるという点で意見は一致していた。その後ともに、竹田さんは配偶者の、私は両親の介護を体験し、支援者の立場から当事者家族の立場に立つことになったのも、不思議な巡りあわせだった。
長年の蓄積の中で、竹田さんはソーシャルワーカーとして、福祉制度サービスについて熟知していた。しかしいざ家族として介護保険制度を利用すると細かいところに不備があり、制度として不十分であることを突きつけられた。またさらに重要なことも見えてきた。それは、多くの高齢者が福祉サービスとマッチせず、その理由は高い理想に裏づけられた「アイデンティティ」のためなのではないかということだった。確かに、保険になじむサービスは画一的で、その人がどのような人生を生き、どのように人生を閉じたいのかという個人的側面は切り捨てられる。しかし、人生の最終章である死に向かう過程こそ、最も個別性が重視されなければならないはずだった。
高齢者とアイデンティティ
一時期、竹田さんは、「アイデンティティ論」に着目した文章を書いていた。その中で、「死を間近に控えた人間がまだ生きているうちに、もう自分は何の意味もない存在と感じたときの孤独」すなわち「社会的死」について言及することが多かった。竹田さんは死を「人生最大の受動的事件」とし、「社会関係の中で意味ある行為を最終的に果たせなくなる過程」と規定した。その時、社会とのかかわり方の中で、「できる自分、なす自分」から「存在するだけで価値ある自分」と認識できることが、死に向かう存在の成長と考えていた。
しかし、家族の側から見ると、本人の晩年の姿を「死に向かう成長の過程」ととらえることは難しい。そもそも家族内には長年培ってきたコミュニケーションの様式があり、ことさらことばを介して伝えようとする努力はなされない。高齢になると属する世界の狭さもあって視野が狭くなり、今日をどう生きるかにのみ関心が向けられる。家族の側から見ると、それが自己中心的に映る。認知症でなくても、直近の記憶が不確かになり前日の言動と一致せず、思いつきで言っているように感じさせる側面もあり、そこに一貫したアイデンティティがあるとは感じさせなかった。
高齢者は、家族のその日の予定など眼中にない。家族は自分の予定のほかに高齢者の型通りの日課を管理しなければならず、その上、突発的な要求に誠実に応えようとすると、ストレスが蓄積された。ストレスが頂点に達すると、生活の実権を持たせてほしいと願い、本人と家族の間に壮絶な戦いが繰り広げられる。この戦いは、多くの場合、気力、体力の勝る下の世代が勝利することが多かった。竹田さんは「他者に自分のアイデンティティが飲み込まれる。」ことと感じ、それは家族にケアをゆだねるゆえに、引き起こされるのかもしれないと思っていた。
自分らしさを貫く
このように、死という最終局面で「自分らしさ」を貫くことはなかなか難しい。その妨げとなるものが、一番身近にいる家族であることは、皮肉というほかはない。そこには、ケアする側、ケアされる側の立場の違いは歴然として存在する。ケアする側は1分でも長く生きてほしいと思い、そのためにきちんと日課をこなしてほしいと願う。晩年の生活では、型通りのことを毎日着実に行うことがいかに大事であるかを私も介護者となって痛感させられた。ケアされる側は、日課は生活だが人生ではないと感じ、同じことの繰り返しの単調な毎日では生きている甲斐はないと思う。しかし、高齢者はちょっとした変化、たとえば睡眠、食事、運動等の乱れで簡単に体調を崩す。それを厳密に考えると、ケアする側が「監視」あるいは「管理」するほかはなく、生活から潤いが奪われる。それをうっすら感じつつも、ケアする側は、片時もケアが頭を離れずそれで精いっぱいの生活に、さらに変化を求められると破綻してしまう。
では、長年培ってきた「その人らしさ」を晩年の生活にどう落とし込むのか?それには、本人と家族が話し合うことしかないのではないか。しかし以心伝心の日本で、特に家族の間で対話が成立することはほとんどない。それを防ぐには、子はいずれ迎える親の死を覚悟し、親は独自の物語を生きている存在だと認める必要があった。それは、長年同じ屋根の下で同じ空気を吸い、同様の人生を生きてきたという思い込みから解放されることを意味していた。竹田さんよりかなり年下の私は、家族との対話より、家族から距離を取った暮らしを思い描いていた。その構想を竹田さんは熱心に応援してくれ、「アイデンティティ論」の中で、アイデンティティを貫くための応用形態と位置づけてくれた。しかし、竹田さん自身が実行することには逡巡があった。
竹田さんの急死は、敬愛する先輩としてまだこの先々助言をもらえると考えていた私にとって、呆然とするような事態だった。衝撃の時期を過ぎると、竹田さんの声が聞こえてきた。「あなたは死について考え、ものを書く人よね。いったい私の死をどう総括するの?お手並み拝見したいわ」。厳しくも、ちょっと茶目っ気のある竹田さんらしい呼びかけのことばだった。果たして、竹田さんはこの文章をどう読んでくれるのだろうか。まだまだ考察が足りないと叱咤する彼女の声が耳に響いてくる。そして、竹田さんに語り続けた「血縁から自由な居住者同士が支えあう住宅」に対するエールも、同時に送られてきていると感じる。
(つづく)
写真:ぱくたそ