第10回
自分の意思で閉じる 看護師が経験した看取りから
今から8年ほど前、拙著『地域・施設で死を看取るとき』を編もうとしたとき、執筆を分担してくださる方として看護師の鈴木知恵さんを紹介された。お会いしてすぐ、鈴木さんのあふれるようなエネルギーが伝わってきた。関わる人々に常に全力で向き合い、医療や生活上の困りごとをどうしたら減らすことができるのか、問いかけていた。看取りに関する本を作りたいという唐突な申し出に、「看取りというものは一筋縄ではいかないものです」ときっぱりとした口調で応じた。その口ぶりから、たくさんの人を看取ったであろうこと、そこにさまざまな困難があったことがうかがわれた。当時、鈴木さんは仕事に忙殺されていて、執筆依頼はそれ以上進まなかった。短時間の出会いであったが、彼女の看取りに対する経験や思いを、いずれ聞き取らせてほしいと強く思った。
今回、「物語を自ら閉じる」という視点で書くに際し、鈴木さんのかかわった方々の物語を聞きたいという思いが募った。お話を聞きながら、遺族のまだ癒えぬ深い悲しみを思うと、とても書き起こせないと感じた物語もあった。以下に再現するのは、ご本人の確固とした決意がまずあって、ご家族もある程度納得された人生の幕引きだった。
鈴木さんは、もちろん最初から看取りを意識していたわけではない。看護師としてのプロセスの中で看取りの重要性を強く感じてきた。そこで、鈴木さんの看護師としての歩みをまず振り返ってみたい。
30数年前に勤務した病院は辺鄙な場所にあり、あまり患者が来なかった。当時、住民は大規模な病院を受診する傾向があったので、通院してくる患者は高齢者ばかりだった。患者は老いが進むと通院できなくなったため、やむなく在宅に往診に行くようになった。認知症の患者は柱に縛り付けられ放置され、看護師が水着を着て入浴させることもあった。
病院と家庭の中間施設として老人保健施設(以下、老健)が位置付けられるようになると、老健の看護師となった。当時、老健は臭気がひどく、患者同士の暴力やけんかが絶えないところが多かった。このようなことの背景には、中間施設とは名ばかりで、多年にわたり入所し続けることがあった。
そこでまず、入所しっぱなしにすることを改め、たとえ数日であっても退所するしくみを作った。それと同時に布おむつをやめ、紙おむつを導入した。紙おむつを通して、必然的に介護を工夫することになり、看護師のモーティベーションが上がったという。やがて訪問看護ステーションに移り、十数年在宅看護に携わる。認知症の患者が安心して暮らせる地域のつながりづくりにも奔走した。
定年後は請われて、訪問診療を手伝うようになった。訪問診療は医療保険制度中の診療の形態で、そこでの看護師の役割は生活上の悩みや望みを把握し、医師や訪問看護ステーションなどの介護保険事業所に伝える「つなぎ役」にあった。
診療所にかかわると、鈴木さんはまず関係するケアマネに片端から電話しケアプランを送ってくれるよう働きかけた。退院調整があれば、遠方でも出かけ在宅での生活が可能になるよう発言した。急変時に再入院させてもらえるかどうか確認をとることもあった。これらの調整会議は、今では「人生会議」と名づけられ、多職種連携として医療・介護の場で普及しつつあるが、鈴木さんはずっと以前から当たり前のこととしてこの調整に携わってきたのだった。
数年前、鈴木さんが訪問診療に同行した際、住宅型有料老人ホーム(以下有料ホーム)で90代の佐々木素子さんと出会った。佐々木さんは血液のがんを患い、病院を定期的に受診し輸血によって命をつないでいた。
佐々木さんは、有料ホームに入居するまで、次男夫婦と同居していた。次男の妻(以下単に妻とする)はがんを宣告されていた。佐々木さんは、妻ががんで苦しんでいるのを見て、自分が輸血しながら生き続けることに抵抗を感じ始めた。やがて妻の体調はだんだんと悪化していき、これ以上負担をかけられないと有料ホームを探して入居した。家族に頼らず人生の幕引きをしようという準備だった。ほどなくして、妻はがんが悪化し自宅で亡くなった。
有料ホームには介護型、住宅型とさまざまなタイプがある。住宅型は「見守りのある住まい」で原則的にはその中で介護は提供されない。介護が必要な場合は自宅同様、外部の事業所と契約することになる。家族は母親の選択に驚き、思い描いたとおりに人生を全うできるのかどうか心配し、頻繁に訪れた。しかし、佐々木さんはできるだけ自分の力で生活しようと心がけ、訪問診療と介護保険の訪問看護に入ってもらうことにしたのだった。
20数年前に血液のがんと宣告されてから、佐々木さんは輸血を受けてきた。佐々木さんの中では、「輸血は死にそうな人に行われるもの」だったが、医師の治療方針に逆らうことはできないと考えたからだった。しかし次男の妻の死を間近で見てから、いずれ自分にも訪れる死について考えるようになった。熟慮を続けた結果、輸血をしない選択をしたいと病院の主治医に告げた。主治医は「それも選択肢のひとつ」と否定することはしなかった。
本人の意思を再度確認するために、訪問診療のタイミングに合わせて、長男夫婦、次男、訪問看護師、ケアマネジャーが呼び集められた。「十分幸せな人生だったが、このまま輸血をしながら100歳まで生きることは望まない」と佐々木さんは希望を語った。家族に遠慮する気持ちがないとは言えなかったが、佐々木さん自身は十分に生き切ったという思いの方が強かった。長男夫婦は説得を続けたが、佐々木さんは受け入れなかった。病状的には輸血をしないからと言って即、死を迎えるようなものではなかった。結局、このまま自然に任せようということになった。
だるさを訴えることはあったが、しばらく体調に大きな変化はなかった。しかし、だんだんと状況は悪化した。そんな中でも、本人の希望で好物のウナギを刻みご飯にまぶして食べることもあった。会いたい人に来てもらい、孫やひ孫も訪ねてきた。身体介護は本人の希望で家族ではなく、ヘルパーや看護師が行なった。やがて37度台の熱が下がらないまま、声をかければ目を覚ますが、とろとろ眠っていることが増えた。長男夫婦が泊まり込んだ日、血圧が下がり、尿が出なくなった。長男がふと様子をうかがうと佐々木さんは呼吸していなかったという。輸血を行わない選択をしてから8か月ほど経っていた。
鈴木さんは、佐々木さんを通して自分が学ばされたことの方が多かったという。「特に強く印象に残っているのは、生き方を選ぶ、その先に死がある」といういうことだった。鈴木さんはさらに続ける。
「そもそも、人が生まれるということはだれも説明できない神秘的なことであり、同様に死についてもなかなか納得のいく説明はできない。しかし、長短の差はあっても、誰でも例外なくこの世に生れ、死んでいく。だから、無計画というわけにはいかないと思う。コントロールすることはできないが、大筋の流れは決めて、それに乗り流れていくことなのかもしれない」と。
「今までたくさんの患者さんに出会い、自分は支えられてきた。置かれている境遇にかかわりなく、どの人の心の奥底にもある「ピュアな光」を頼りに、看護の神髄に触れていきたい」と鈴木さんは力強いことばで結んだ。
看取りには、必然的に看取る人の死生観が反映される。鈴木さんの死生観は、これまで述べたように看護師として歩んできたプロセスの中での患者との出会い、看取りを意識する前に治療が及ばず亡くなっていく姿などから長い時間をかけて醸成されている。医療者として鈴木さんは当然のことながら命を守ることに腐心してきただろう。その中でどんなに不可能に見えることも簡単に放棄せず、患者の自己決定を引き出し最大限それを尊重するという姿勢が培われた。そしてそれは、看取りという最終段階にもぶれることなく貫かれたように私には見える。
「ピュアな光」そして「看護の神髄」とは何か。それはすぐ説明を求め理解する余地を与えない奥の深いことばだった。それについて少し時間をかけて考えてみたい。
(つづく)