第9回
親と子のずれる思い
大山さんの看取りについての話は今回で最終回となる。最後に、母である大山さんとと息子守信さんの物語を描いてみたい。家族は長く時間を共有していても、必ずしも同一の物語を思い描いているわけではない。そこにどのようなずれがあり、それは何を意味しているのか考えてみたいからだ。なお、大山さんにについては東さんから、守信さんについては成年後見人の鈴木直美さんから聞き取った内容に基づいている。
大山さんの物語
大山さんはあまり裕福とはいえない家庭に育ち、中学校卒業後ずっと働き続けてきた。23歳の時、公務員と見合い結婚し守信さんが生まれた。しかし夫は酒乱気味で結婚生活は長く続かず、守信さんが1歳のとき別居し3年後正式に離婚した。当時は離婚後の養育費について話し合われることは、ほとんどなかった。しかし、大山さんは養育費をもらうことは当然と考え、何人かに聞き合わせ元夫の給料を差し押さえる方法があることを知り実行した。
その後、いくつかの仕事を経て中小企業の経理を長く担当し、きちんとした仕事ぶりから職場の信頼も厚かったという。52歳の時退職してからは、保健活動推進員、民生委員など、地域活動に熱心に取り組んだ。「生活上の悩み」を抱えている人の力になりたいという気持ちは、身近に守信さんがいて、養育の過程でさまざまな課題を抱えていたことと無縁ではなかっただろう。地域活動の傍ら、ヘルパー2級の資格を取り、複数の訪問介護事業所にヘルパー登録し17人の利用者を担当した。これらの活動はがんの発病が判明する71歳まで続けていた。
ひとり親家庭での大山さんの役割は、家計を成り立たせることにあったようだ。とかく女性のほうが低賃金であるから、四六時中働かなければならなかった。そこで、守信さんの養育はもっぱら祖母、すなわち初枝さんの母が担うことになった。守信さんが3歳の時から親子3人で市営住宅で生活した。小学校時代、守信さんはよくいじめにあったという。このころのIQは境界線上で、学童期はただ、できの悪い児童とみなされていた。しかし成長するにつれ発達の遅れや適応力に多少の問題が出始め、中学生のとき、軽度の知的障害の可能性を指摘され、一番軽いBⅡと判定された。
その後、大山さんはふとしたことで母親と不仲となり、母親は市営住宅を出て別所帯となった。やがて高齢となった母の面倒は唯一の兄弟である弟が見ることになった。弟は大山さんのところによく金の無心に訪れ兄弟仲はあまりよくなかったが、2005年母が他界してから断絶状態となった。宮城県に住んでいて、2011年の東日本大震災以降、生死のほどはわからないという。
守信さんの物語
成年後見人の鈴木直美さんが語った守信さんの物語は次のようなものだった。なお中学校卒業までの経緯は大山さんから聞き取っているため、違いはない。その後の話は、大山さん、守信さん双方の聞き取りによっている。
義務教育を終えた後、守信さんは工業高校夜間部に進み就職し、車の整備の仕事を5年くらい続けた。しかし人間関係がうまく作れず、ストレスから飲酒や喫煙を覚え仕事を続けられなくなった。その後、近隣の授産施設(のちに生活介護事業所)に通うようになった。
一時期、同じくこの施設に通っている女性との結婚を強く望んだ時期があった。しかし、大山さんは知的障害のある女性との結婚を認めなかった。子どもが生まれたら、周囲に迷惑をかけると考えたようだった。以後、守信さんからそのような希望が出されることはなかった。
数年前からは近隣のグループホームで生活するようになり、土日のみ帰宅し母親と生活した。大山さんからの希望を受けて法人後見を担っている団体が守信さんの成年後見制度の手続きを取ったのは、大山さんのがんが判明した直後だった。家裁で「後見」「補助」「補佐」のうち、補助類型と決定した。ちなみに鈴木さんは、初代の成年後見人から守信さんの引き継ぎを受け、2年目を迎えている。
鈴木さんとしては、できるだけ本人の意向を尊重するよう心がけた。しかし、尊重すべき意向の把握は簡単ではなかった。車の整備工場で働いていたため車には詳しかったが、それ以上の関心は示さなかった。施設の海外旅行に母親と数回参加していたので、海外旅行に水を向けたこともあったが、特に行きたいという意思は示さなかった。あくまで施設の行事であり、海外旅行そのものに対する興味ではなかったようだ。結局のところ、守信さんのしたいことはお酒を飲むことのようだ。大山さんが亡くなってから、まだ契約していた市営住宅に土日に帰宅した際、缶酎ハイを数缶飲んでひどく酔ったことがあった。派遣されていたヘルパーさんがそれを発見し、事業所で問題となった。守信さんが健康診断のときに、高血圧、高脂血症等生活習慣病を指摘されたこともあり、鈴木さんと話しあい1回1本と取り決めた。やがて鈴木さんの支援を得て、市営住宅を引き払い365日生活できるグループホームに移り住んだ。そこで土日のみ飲酒の機会を提供してもらっているが、1回1本という約束は今でも守られている。
現在50歳であるが、生活介護事業所では配食弁当の盛り付けを担当している。もともときちんとしなければ気が済まない人で、たとえば折りたたんで積み重ねたタオルが少しでもずれると積みなおす、ベッドのシーツがきちんと折り返せていないとやり直すなど几帳面なところがあり、この点は母親と共通しているという。お弁当の盛り付けも事業所では適性を見て配置しているところから、この几帳面さが生かされた形だ。
鈴木さんから見ると、全体的に素直でひねくれたところがない。事業所職員やグループホーム職員には甘え上手な側面も見せている。これらの人たちや鈴木さんの助言は「自分を思って言ってくれている」とそのまま受け取ることが多い。かといってすべて鵜呑みにしているわけでもなく、喜怒哀楽ははっきりと表現する。ある時、成年後見人の実習のために、守信さんにとっては見知らぬ人を伴って訪問したことがあった。この件はあらかじめ生活介護事業所からグループホームに伝えられる手はずになっていた。しかし実際は守信さんに伝わっておらず、突然見知らぬ人が訪ねてきたという印象を与えた。守信さんは「へんてこりんな人を連れてきた」と怒って部屋に帰ってしまい、きちんと説明し理解してもらうまでにかなりの時間を要したという。
母の死後もグループホームに適応し、部屋も生活も乱れることなく、特に動揺は見られない。鈴木さんと一緒に、彼岸には母親のお墓参りに行っているが、本人はそれほど乗り気ではなく、「行かなくちゃならないの?」と聞いてきたりする。母親の写真は写真たてに入れて机の上に置いてある。本人の意向というより、周囲が気をきかせておいたという意味合いが強い。この写真たては、鈴木さんが訪問する際は、常に裏返しにされている。グループホームの世話人が整頓の際、表側にしても必ず裏向きになっているというから、そこに、何らかの守信さんの意思が示されているのだろう。
離婚後、大山さんは働いて家計を支えることに精いっぱいで、守信さんの子育てはもっぱら祖母が行っていた。守信さんにとっては母親役は祖母であり、大山さんは血縁としては母親であっても、実際は社会の中で自立して生きていくことを促す父親のような存在だったのかもしれない。
障害のあるなしにかかわらず、親はいつまでも幼いころからの接し方をわが子にしてしまい、なかなか修正されることがない。それを変えるのは、子どもが明確に「ノー」を言うことなのかもしれない。親にとって子どもが発する「ノー」は、ある種の痛みを伴う体験なのだが、そこでようやくもう子どもではないのだという現実を突きつけられる。しかし、障害を抱えている人にとって、この「ノー」を言うことは必ずしも簡単ではない。それは、親と訣別することであり、軽度の障害のある人の場合は、その後ひとりで生きていかれるかを朧気でも考えざるを得ない。
守信さんは、好きになった女性と結婚することで親から自立したかったのかもしれない。相手の障害の度合いもあるので一概には言えないが、要所は支援が必要だったとしても、決して不可能なことではない。現実に支援を受けながら知的障害者同士結婚し、所帯を営んでいるカップルも少数ながら存在する。
家族の物語の共有と断絶
家族の間では、多くの物語は共有されるが、完全に一致はしない。家族それぞれに「自分の物語」がある。親はどうしても幼いときから描くストーリーで子どもの生活を思い描きがちになる。そこに修正が加われば新しい理解が進むが、修正されないままだと断絶が生まれやすい。
もうひとつ念頭に置かなければならないのは、軽度の知的障害があったために、守信さんが表に現れない母親の感情の機微を理解することが難しかった点だ。理解はどうしても白、もしくは黒で、グレーの部分は見えにくい。グレーを考慮すると、母親は矛盾した存在となり、守信さんは混乱してしまうのだろう。自分亡き後社会でひとりで生きていくために、父親の代わりとなってあえて厳しく接していた大山さんの深い悲しみは、守信さんには理解できなかったのではないか。「軽度は軽度で別の難しさがある、わかっているようで全くわかっていない」と大山さんが私に語っていたことばには、このような意味がこめられていたのかもしれない。
一方で、守信さんからすれば、結婚して所帯を持つという自分の可能性をあっさり否定されてしまい、そのことに明確なノーを言えずわだかまりが残ったのだろう。それが、裏返しにされた写真立てやお墓詣りに気が進まない姿として示されているようにも見える。
守信さんに成年後見制度を利用しグループホームに入所させ、親亡き後の生活を万端整えた大山さんだったが、息子の可能性に目を向けることは難しかった。それは息子が別れた夫同様酒癖が悪かったからかもしれないし、日中は生活介護事業所、それ以降はグループホーム以外の選択肢を示すことのできない福祉制度や、障害者とともに生きる姿を示せない社会の限界だったともいえるかもしれない。
(つづく)