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かなえられなかった願い

心境の変化をもたらした痛み

がんが判明して以降の大山さんの願いは、「最期まで自宅で暮らすこと」だった。住んでいるのは昭和40年代に建てられた市営住宅の3階でエレベーターがないため、体調の悪い時は階段の上り下りには苦労が伴った。大山さんに衰えが感じられたころ、後から振り返ると死の8か月前ほど前だったが、東さんは大山さんの希望にそって自宅で看取れるように環境を整えた。まず、2DKの住まいの畳替えを行った。そして守信さんにはふつうのベッド、大山さんには介護ベッドを入れ、カーテンを新調した。大山さんはこれまでひたすら守信さんのために働き貯蓄してきた。東さんには、青畳の匂いの中で真新しいカーテンに囲まれて、大山さんがせめて最期の時を快適に過ごしてほしい気持ちがあった。一方の大山さんには、自分亡き後、息子が一人で生活しやすいように準備したい気持ちがあった。目指すところは同じではなかったが、リフォームすることでふたりの意見は一致した。このように自宅での看取りに向けて、体制は着々と整えられていった。

しかし、がんは進行するにつれて予想を超えた強い痛みを引き起こした。東さんのほかにケアマネジャー、ホームヘルパー、訪問看護師が連携しながら支えていたが、大山さんがひとりっきりになる時間を完全に埋めることはできなかった。この時期の大山さんの願いは、単に日常生活を支えてもらうだけでなく、不安も含めこれから死に向かう心の準備を整えることにあったのかもしれない。しかし、ことばでそれが語られることはなく、そもそも本人がはっきりと意識していたかも定かではない。はた目からはただ、大山さんが漠然と不安を募らせていくように見えた。

自宅で闘病することの不安を初めて口にしたのは、暮れを目前としたころだった。その時期、生活介護事業所やグループホームが年末年始体制となり、守信さんが家で過ごす時間が格段に増えるはずだった。痛みと戦う上に、守信さんに配慮しながら生活することは大山さんにはもう荷が重かった。「私は息子の面倒まで見られない」と言い始めた。そこで東さんはその期間、大山さんに特養のショートステイと契約し、守信さんには一人で生活してもらった。

一難乗り越え自宅での生活に戻ってからも、病状はさらに進行し、消化力にも影響したのか数日間下痢が止まらなくなった。そうこうしているうちに食欲も落ち、大山さんはひとりで生活する気力を次第に失くしていった。そして自宅で最期まで生活するという前言を翻し、いつも誰かがいてくれる場所での生活を強く望むようになった。そのため東さんは当面の生活の場として、再び特養のショートステイ利用の手続きを取った。

その日は所用で東さんの都合がつかないため、私が市営住宅に迎えに行きタクシーで10分ほどの特養に同行し、ショートステイ入所手続きに立ち会った。大山さんは1階に併設されている地域包括支援センターの職員とも顔なじみで、ほっとしたのか笑顔で挨拶を交わし、少し落ち着きを取り戻したようだった。ここで看取りができれば人間関係としては申し分なかったが、環境としては問題があった。というのも、その特養は従来型の施設で、4人部屋が中心だったからだ。そのため看取りに対応しておらず、病状が悪化すれば入院せざるを得なかった。

 

有料老人ホームへの入所

ショートステイの契約は2週間だった。しかし、大山さんの強い不安から帰宅を見合わせた。東さんは看取りを行う有料老人ホームを探すために奔走した。大山さんの性格は熟知していたから、インターネット検索の後、大山さんにふさわしい看取りの場を1軒 1軒見学した。個室であることは看取りには必要条件だった。その他のチェック項目はトイレや浴室などの共有スペースが個室からどの程度の距離にあるかだった。これに加えて、肝心の介護の提供の仕方などを考慮し、数件見比べ大山さんの住む市営住宅から車で15分ほどの比較的規模の小さな有料老人ホームと契約した。

最期を迎える場として周辺地域に土地勘があるということは、当人にとって大切なことだった。衰えてからの呼び寄せ同居があまり芳しいとは言えないのは、見知らぬ土地で、それまでの生活と断絶したかのような違和感を、本人に感じさせてしまうからなのだろう。

東さんは、施設長、施設のケアマネジャーと頻繁に会って、看取りの体制を整えるとともに、医療体制を大学病院から訪問診療に切り替えた。限られた職員配置なので、介護職員は大山さんにだけついていることはむろんできなかったが、コールすればいつでも駆けつけてきた。それは自宅で一人で闘病するのとは大きく異なり、大山さんに安心感を与えていた。

がん末期は程度の軽重はあっても痛みが伴うが、痛みを引き起こす原因はいくつかあるという。身体の痛み、心理的な痛み、社会的な痛み、実存的な痛みなどと定義する研究者もいる。これらは個々ばらばらのものではなく、どの要素が強いかに過ぎない。

当面、施設での生活は大山さんに物理的な安心感は与えた。しかし、保健活動推進員、民生委員、ホームヘルパーとして地域活動に熱心に取り組んだ大山さんは、有料老人ホームの個室でたった一人で痛みに立ち向かいながら死を迎えることが耐え難ったのかもしれない。あるいは、酒乱の夫と別れ、障害のある息子のために一心不乱に働いてきた自分の人生とは何であったのかを、自問していたのかもしれない。

痛みが意味するもの

有料老人ホームに入所することにより、少なくとも一人で生活する不安からくる痛みは軽くなるはずだった。事実、大山さんは我慢強い人なので、直接痛みを訴えることはなかった。しかし、入所後も「痛い」ということばこそ発しなかったが、顔には憔悴の色を浮かんでいた。

痛みへの対処というと、自宅から施設への環境調整や、鎮静剤の増量という医療的措置を真っ先に考えがちとなる。もちろんそれは最優先事項ではあるが、大山さんの痛みの奥底にあるものに目を向け、深いところの声に耳を傾けることも大事なことだったのではないだろうか。しかしそれは、体力がなくなるころでは難しく、主体的に話すことのできる時期に限られる。大山さんは守信さんのためにある程度の財産を残し、成年後見人をつけて万全の準備を整えたかのように見えるが、それだけでなく自分ではコントロールできない痛みや死に対して備える必要があったのかもしれない。とはいえ、東さんをして「気楽な人ではない」と言わしめた大山さんと、死を前提とした話がどこまでできたかは定かではない。死について語り合うことは、その人の内面に深く入り込む作業だから、人によっては一定レベルしか立ち入らせないということもあるだろう。支援者はそういう必要性を意識しつつ、押したり引いたりしながら、来るべき死に向けてソフトランディングできるように心身の準備を整えていく、それも支援の一環といえるのかもしれない。

大山さんの尊厳を最期まで保とうと、鎮静剤の服用は医師と協議の上昏睡に陥らないよう調整されていた。しかし東さんは、末期の痛みの強さを思うと、たとえ意識レベルが低下しても増量したほうがよかったのではないかと、大山さんを看取った後で語っている。大山さんは最期まで周囲に毅然とした姿を見せ続けた人だけに、難しい選択だった。

加えて、東さんは多少の心残りとして、近隣のドライブだけでなく、「大山さんを旅行に誘ってあげたかった」という。大山さんがステージⅣのがんを宣告されてから他界するまで、おおよそ2年半の時間の経過があった。宣告当時、医師は骨転移による骨折を恐れ首をコルセットで固定し歩行を禁じ車いす使用の状態であったから、とても遠出は望めなかった。

しかし、大山さんはやがてコルセットを外し、自分の足で移動するようになった。自分の身体の感覚を自分で把握したからのようだった。死の半年ほど前からは全身の衰弱が進み、旅行どころではなかったが、その間の1年ほどはよくないながらも体調は安定していた。大山さんは自分に何かあったとき、対処できるのは東さんだけであろうと感じていた。一方、東さんは、リスクを冒して大山さんを非日常に誘い出すことに今一つ踏み切れなかった。もし、旅行に行くことができたら、大山さんは人生を振り返る機会を持てたのではという。

ケアする側は、要介護状態になると、どうしても日々の生活をつつがなく送ってもらうことで精いっぱいになる。旅行に出かけることで、体調の悪化を招くことを避けたい気持ちにもなる。しかし、いずれ遠からず死を迎えると考えると、非日常的な空間の中で人生をもう一度振り返り、自分の物語を描きなおす機会を提供することも、意味のあることといえるのかもしれない。

(つづく)